鴨が葱を背負って来る

鴨が葱を背負って来る
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 夜明に近い頃、蝋燭のたってしまった白い提灯を下げた捜索の村人の一人が、蒼い顔をして報告を持って来た。幸子が断崖の下の岩蔭に落ちて死んでいると云うのである。
 別荘の人々は狼狽した。肝心な旻は殊の外重態でそんなことを耳に入れるのさえ非常に危ぶまれたし、年のゆかない女中や看護婦ばかりで、全く途方に暮れた。
 先ず晃一に知らせてやらなければならないのだが、併し恰度その日は晃一が来る日で電報を打ったところで行き違いになる迄のことだと云うので見合せられた。
 検屍は朝の中に済んだ。幸子の死体は、別荘から三町と隔てない崖の真下に、半ば干き潮になりかけた海水に漬りながら横たわっていた。前額(ひたい)と胸とを鋭い岩角に打ちつけて、それが致命傷らしかった。

ひどく申訳のないような顔をして:鴨が葱を背負って来る

 ――あたし、死にかけた人間なんかに恋をしなくってよ!」
 幸子は、そう云い捨てると、駈け出した。
 旻は、周章て縁側から芝生へ飛び降りた。そして跣足(はだし)のまま、蹌踉(よろめ)[#ルビの「よろめ」は底本では「よろめき」]きながら、咳につぶれた声で呼び立てた。
 ――幸ちゃん! ごめん、ごめん。……幸子さん!」
 併し、幸子は、振返りもせずに、どんどん裏木戸から断崖(きりぎし)の松林の方へ走り去った。旻は踏石の上の庭下駄を突っかけて、その跡を追った。
 間もなく、旻一人だけ切なそうな息を切らせて戻って来た。
 ――何処へ行ったのか、見えなくなってしまったよ。」と旻は、家の者に告げた。旻は苦しがって、それから直ぐ床についてしまった。
 ところが、何時迄待っても、夕方になってやがて浜辺や松林の景色が物悲しく茜色に染まって、日が暮れかけても、幸子は帰らなかった。人々は漸く気遣いはじめた。そこで幸子の立ち廻りそうな極めて少数の家々と停車場とへ問い合せてみたが、一向に知れなかった。
 夜っぴて、幸子は帰らずにしまった。
 旻は旻で、ひどく熱を出して、多量に喀血した。
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 ――ねえ。」
 ――なあに。」
 ――明日、兄貴来る日だね。」
 ――ええサラミを買っていらっしゃるわ。」
 ――僕が、起きているのを見て驚くだろうな。」
 ――そうね。でも、あんたいい気になって、あんまり無理しちゃ駄目よ。」
 幸子は何気なく振返った拍子に旻の眼を感じて、身を固くした。
 ――ねえ。」
 ――なあに?」
 ――僕は、幸せだよ。」
 ――…………」
 ――幸子さんが、たった一度接吻してくれたばかりで、こんなに元気がついてしまったのだって、兄貴にそう云ってみようかな。」
 ――あんたは、悪党よ。」
 ――結構……」
 ――あたしが、あんたを愛しているとでも思ったら、それこそ大違いだわ。」
 幸子は、花をうっちゃって立ち上がった。
 ――嘘だ! 幸子さんは、心の底では誰よりも一番僕を愛していなければならない筈だ。一時眠っていた昔の僕たちの恋が目をさましたのだよ。あんなに一途だった人間の愛情がそう簡単に亡びてしまうわけはないのだからね。僕は長いこと待った……」
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 そんな時には熱は直ぐ上った。そして、それが幸子の故(せい)だと云って、彼女は鳥渡(ちょっと)でも姿をかくしたりすると、旻は一層亢奮して看護婦や女中を怒鳴りつけて、幸子を呼んでくれと云い張ってきかなかった。夜更けて氷嚢を取り更えるのにも旻は眼を大きく輝かせて、若しそれが幸子以外の者である時にはひどく機嫌が悪かった。
 併し、遉(さすが)に晃一が居合わせる際なら、そう我儘も云うわけにはいかなかった。晃一に対してはまことに素直に振舞った。
 晃一は所在ない陰気な日曜をまる一日、弟の枕もとに寝そべって弟のために買って来た新刊書などを自分で読みながら過すのだったが、ふと二人の顔が会うと、旻は黙って微笑してみせて、さて大儀そうに首をそむけて眼を閉じた。
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 上天気が続いて日毎に晴々とした青空の色が深くなって行った。海は一番はるかな島影もはっきりと浮かせて、湖のように静かであった。
 旻の病気は鳥渡もち直したかたちであった。
 その日の午後、旻は久し振りで、陽の一っぱいに当っている縁先の籐の寝椅子に出て見た。
 幸子は庭に降りて、誰も構うものがないので、延び放題に延びてたおれかけたコスモスの群れをいくつにもまとめて紐で縛りつけていた。
 ――おかしな花だよ。たっていられない程なら、こんなに背を高くしなくたって、よかりそうなものだわねえ。」
 ――僕も手伝ってやろうか。」
 ――お止しなさい。あんたの方がコスモスより、よっぽどヒョロヒョロのくせに。」
 旻は、支那服のような派手なパジャマを着てしゃがんでいる幸子の肩から襟のあたりにこっそりと目を送った。
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 その秋に入って、旻の病勢は頓(とみ)にすすんだ。
 それで幸子は夫の同意を得て、義弟の看護のために別荘に逗留することとなった。晃一も殆ど毎度の週末には泊りがけで遊びに来た。
 旻にして見れば兄夫婦が、それこそ唯一つの身内だったのでこの上もなく喜んだ。
 幸子は寝食を忘れて病人の看護につくした。
 病人は、海にむかって硝子戸を立てめぐらした座敷で、熱臭い蒲団に落ち込んだ胸をくるんで、潮風の湿気のために白く錆びついた天井を見つめた儘、空咳をせきながら、幸子の心づくしに堪能していたが、それでも覚束ない程感動し易くなっていたので、時々幸子を手古摺らせた。
 ――僕は幸子さんにそんなにして貰うのは苦しい。いっそ死んでしまい度いよ。どう考えたって、僕なんてのは余計者なんだからね。」
 ――そんなことを云うと、あたしもう帰ってよ。」
 ――ああ、帰っておくれ!」
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兄を晃一、弟を旻と云う。
 晃一は父親の遺して行った資産と家業とを引き継いで当主となった。旻は実際的な仕事が嫌いだったし、それに大学の文科へ入って間もなく肺病にとりつかれたので、海辺の別荘へばかり行って、気儘な暮しをしていた。
 兄弟仲は決して悪い方ではなかった。一月に一度はかかさず、兄は嫁の幸子と共に、あらかじめ弟の欲しがっている手土産なぞを打ち合せて置いて、はるばる別荘へ遊びに行った。
 ところで、晃一の嫁の幸子は幼い時分から晃一の許嫁として、兄弟と一緒に育てられた身なのだが、未だ女学校にいる頃、高等学校の学生だった旻と恋に落ちて、駈け落ち迄したことがあった。
 二人が捕えられて連れ戻された時、晃一は親たちにせがんでその事件を暗黙に揉み消して貰った。
 ――お前の罪は責めるまい。本当ならば、幸子をお前に譲ってやるべきだろうけれど、僕には彼女を思い切ることは到底出来そうにもない。どうか、お願いだから手を引いてくれ。」晃一は、弟に向って、そう云った。
 そして、旻と幸子とは厳重に引きはなされてしまったが、時が経つ中に二人の情熱も漸く冷めて、その儘案外容易におさまることが出来た。
 晃一と幸子との結婚式の折には、旻はもう肺病になって海岸へ転地していたのだが、わざわざ出て来て席に連なった。
 ――三人とも子供の時分は本当の兄弟だと思っていたんだがね。」
 病気窶れがして寂しい頬の色だったが、旻は新夫婦の顔を見比べて、そう云って笑った。
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 ――それは小石川よ、どうしてそんな判り切ったことをきくの? イブカさん……」と水兵服の少女は、もうすっかり晴れやかな様子になっていて、井深君の腕につかまり乍ら一層甘えるような声で云った。井深君はあたりを見廻した。
 ――ばか、ばかなことを云うのはお止し。そして、いい子にならなくてはいけない……ねえ、わかったかい……じゃあ、さよなら……」と云うと、いきなり、その水兵服の少女を抱きしめて強く接吻した。そしてすぐ、はるかに平河町の方から坂を下ってくる電車をめがけて後をも見ずに駈け出した。
 ところが、その翌朝のこと、園田の声で電話がかかった。
(――井深君、井深君。昨晩は妹がとんだ厄介になって、どうも有難う。あいつはお転婆だからね、いい薬だったろうよ。それでも、妹は君がとても親切にしてくれていい人だって、ひどく喜んでいたよ――)と云うのである。井深君はそれで、三十分も電話の前に黙って立ちつくしていた。
 ――僕はなぜ、はじめ見た瞬間に、その空色の水兵服の少女が、園田の妹に(似ている――)なぞと思ってしまったのでしょうかね、わかりませんよ。なぜ、園田の妹だ、とすなおに思わなかったのでしょうかね、全くわかりませんよ。――僕は人間の、しかも自分自身の目でも耳でも頭でも、あんまり信用出来ないものだと、しみじみ思いましたね……」
 と云う井深君の話である。

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 ――あら、だって、さっき電話をおかけになったでしょう。」
 ――電話だって? あれは君をたすけるための出鱈目さ。」
 ――ああら、どうして出鱈目なんか仰有るの。」
 ――どうしてって、その方が君のためだもの。」
 ――…………。」
 ――君の名前はなんて云うの?」
 ――ソノダチエ子。どうしてきくのイブカさん。」
 ――止したまえ! ふざけるのにも程がある。電話まで聞きのがさない。」
 純良な青年の井深君は、不良少女と云うものは実におそるべきものであると感じた。井深君はそれで黙ってしまった。姿や声はこれ程よく相似ているのにも拘らず、どうして一方にはこんな末恐しい少女が育てられて来たのであろうか。外にあらわれているところが似ているように、心だって屹度、生まれた時は素直な上品な子だったに違いなかったのだろうに――井深君は境遇や周囲の不良少女に及ぼす影響に就いて、法学士らしく考えてみたりした。
 ――君はどっちへ帰るの。」と井深君は立止ってきいた。

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何てしゃあしゃあしていることだろう――と井深君は思った。しかし、まあなんてその声までが、そっくり自分の恋人そのままであることよ――と感嘆した。そして、もしも、あのようなところで遇ったのではなくして、はじめから、恋人と二人で此処を散歩していたものとしたならば、(――何と云う幸福な仮想であろう!)自分は決してこの少女が、自分の恋人と別人かも知れないなぞと云う疑をさえ差し挾まなかったのだが……それにしても、なぜこんなにまでよく似た人間が二人もいるものであろう、恐しい事だ――
 ――君、家で食べればいいじゃないか。君の家どこ?」
 ――ご存じのくせに……」
 ――どうして? 僕知るもんか。」と井深君はドギマギとして云った。

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 果して、その電話のおかげで、主人や女給はひどく申訳のないような顔をしてひたあやまりに、井深君と水兵服の少女とにあやまるし、入口に立っていた野次馬もこそこそとそれぞれ散らばってしまった。
 ところでさて、井深君はその水兵服の少女を連れて其処を出なければならなかった。中山帽をかぶってステッキをついた紳士と空色の水兵服を着た少女とは、やがて赤坂見附の方へ、うす暗い歩道を歩いて行った。月は今は真上から静かにさしかけていた。
 ――君、どうして、あんなところへ入ってご飯を食べなければならなかったの?」と二人っきりになると、そんな少女に対しても井深君は固くなって口をきいた。
 ――あたし、でも、おなかが空いたんですもの。虎の門の裏でお友達とテニスをしたのよ……」と甘えるような声で少女は答えた。

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