菅野芳秀のブログ

▼けんちゃんの田んぼ(その1)


けんちゃんは満で86歳。現役の稲作専業農家だ。
「ようやく人生折り返し地点まで来た。まだ半分だけどよ。」と、大きな口を開けて快活に笑う。
けんちゃんは今年も、すべての水田に苗を植えた。
「大丈夫か、けんちゃん?コメを作っても赤字が膨らむばっかりだよ。」
「お前なぁ、収支の帳尻が合わないからと言って人生やめる事にしたとはならないべ?コメ作りもそれと同じよ。合うか合わないかではない。コメは俺の人生そのもの。ソコントコ、分かっかな?」といたずらっぽく笑い、いつもの「けんちゃん節」が始まった。こうなると長い。
少し解説を加えれば、田んぼはあくまで田んぼなのだが、そこで働いていると、そこには父母の、そのまた父母の、そのまた・・と、米作りに関わって来た祖先の累々たる労働や時間、思いなどの蓄積が見えてくる。そんな先達のタスキを受け取ることを決めた者にとって、田んぼは、単なる田んぼではなく、そこに残された祖先たちの願い総体だ。
百姓を生きることは、そんなタスキと共に生きる事だ。だから、稲作の収支が合う、合わないの話ではない。ま、その辺の事は俺にも良く分かるよ。
 そんな日本中の沢山の「けんちゃん」のおかげで、コメの暴落の中でも、全国の水田は緑なのだ。
 だが、それも終わりに近い。全国各地から「農終い」の声が聴こえてくる。戦後、農地解放以来、今日まで続いた自作農を中心とした日本農業の歴史と文化。それももう終わりが見えて来た。この先の事?分からない。
ただこれだけは言えるだろうな。すでにこの国が描く農業の未来の中に、農民の存在はない。よって村も無くていいという事だ。そんな農業政策が続いている。環境や食の安全を守り、自給度を高め、この国の食料生産を守ることは農民の役割ではないらしい。全てに渡って効率優先。海外品が安ければそちらに選択をシフトする。よって崖から転げ落ちるような速さで小農(家族農)の離農が進む。その点では労働者にも同じことが言えるだろうか。効率最優先を追い求める政治の先に社会の安定は無い。
そう考える俺たちは、警鐘を乱打し、沢山の時間をかけて訴え続けても来た。そしてコトここに到る、だ。ある意味、もう俺たちの知ったこっちゃない。国も頼りにはならないだろうから、後は生産者、消費者問わず、一人一人が自分(達)の問題、自分たちの生存の問題、いのちの問題として、食い物を手にする道を探る事。創る事。もう、人任せは効かない。日本農業はそこまで来た。
(もちろん皆様には、菅野農園が続く限り、コメや玉子は保障致しますぞ。)
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2023.07.20:kakinotane

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