菅野芳秀のブログ

▼こんな題をいただいて・・「農業・農村の課題と展望」


寺山修司の脚本の中にこんな一節がある。ちょっと長いが引用する。「中学校の頃、公園でトカゲの子を拾ってきたことがあった。コカコーラの瓶に入れて育てていたら、だんだん大きくなって、出られなくなっちまった。コカコーラの瓶の中のトカゲ、コカコーラの瓶の中のトカゲ。おまえにゃ、瓶を割って出てくる力なんてあるまい、そうだろう、日本。(後略)」コカコーラの瓶はアメリカで、トカゲは日本だ。その一節はやがて有名な「身を捨てるに値すべきか、祖国よ。」と続くのだが、TPPに関する民主党内閣の姿勢を見ていると思わずこの文言を思い出す。

<農の希望はTPP、グローバリズムとは共存できない。>

私は農民だが、同時に日本列島に住む一人の生活者であり、また、今と未来に責任を負う1億2千万人分の一人でもある。そして、そのどれから見てもTPPへの道は危険だ。
ご存知のように、TPPは独立国の主権である関税自主権の放棄、貿易障壁の撤廃を柱として、内政干渉をルール化しようとするものだ。自由貿易とは言うが、あきらかに貿易上の取り決めという範疇を超えている。TPPとは強国がグローバリズムという名のもとに、国民国家の枠を超えて創り出した収奪システムだ。今まであったような交易上の範疇には入らない。いったん参加すれば国内法の上にTPPのルールが位置付けられ、この取り決めに違反したり制限を加えたりして外国企業に不利益を与えたとしたら、国が外国企業に訴えられ、莫大な賠償金を支払わなければならなくなるなど、今までの条約とは全く違う衝撃力を持っている。例えば日本の森が水資源の供給地として外国の企業に買い占められたとしても、国内法では制限を加えることができないのだ。(註;末尾に)
東日本の復旧には20兆円の資金が必要だと言われるが、当然のことながらこの公共事業も外国資本から自由ではなくなる。TPPは参加国の形を変える。単なる農業の問題ではない。
そもそもTPPはどこからやってきたのか。私は民主党政権が普天間問題で作ったアメリカとの「関係のゆがみ」を修復しようと携えていった「お土産」だと思っている。菅前総理が初めて口にしたのは横浜でのAPECの前、2010年の10月1日、国会での所信表明演説だ。そのときにはまだ野党はおろか肝心の民主党の国会議員ですらほとんど知らなかったという。それから1年と数か月。これまでいったいどれだけの議論を重ねてきたというのか。前に述べたようにTPPはこの国の形を変えるほどの大きな衝撃力をともなっている。だが、国会で議論が尽くされたとはとうてい言えない。国民の多くもよくは知らない。にもかかわらず、昨年(2011年)の11月、ハワイで開催されたAPEC首脳会談において、TPP参加に向けて事前協議に入ると明言してきた。参加の可否をめぐって、国会を解散し民意を問うぐらいのことは最低必要なことではないのか。民主党政権は、ことの重大性にもかかわらず、何ほどの説明も行うことなくTPP参加に前のめりになっている。マスコミだってそうだ。彼らはTPPのプラスとマイナスの両面を国民の前に明らかにしようとしてきただろうか。やってきたことは誰もが知っているように、ただ「バスに乗り遅れるな」とばかりに危機感をあおり、「TPP参加」を国民に押し付けようとしてきただけだった。ジャーナリズムの基本的な役割を放棄している。すべてが浮ついていて、原発と同様、肝心なことは国民に何も知らせず、政治権力、マスコミ情報権力、経済団体が一体となって、あたふたとことを進めようとしている。だが、ここでも彼らに未来があるとは到底思えない。
トカゲにビン瓶を割る力があるのかって?当たり前だ。割れる。石に噛り付いても割らなければならない。それ以外の道はあるわけはない。そういうことだ。

新年早々、いきなりのタンカでもうしわけない。だけど新春にふさわしく、夢のある「農業・農村の今後の課題・展望」を語ろうとしても今はTPPを避けては通れない。またTPPを知れば知るほど危機感が深まっていき、このような言葉になってしまうのだ。

<日本のコメが「不当に高い」?それって「不当に安い」の間違いでねえの?>

TPPをめぐる論議の中でまたぞろ農業攻撃が盛んになってきた。
「日本のコメは778%という高い関税率で守られていて、消費者は不当に高いコメを食わされ続けている。」と為政者やマスコミは盛んに水田農業をやり玉にあげ、規模拡大を進める必要があると合唱する。このような論に接するたびに、この国の「指導者たち」は農業をどうしてこう規模の面からしか見ることができないのだろうかとうんざりする。
そもそもだよ。高いとは言うけれど、彼らはご飯いっぱいの値段がいくらにつくのかを知っているだろうか?白米にして70gだ。10s4000円のコメを買ったとしても28円にしかならない。私のコメは殺菌、殺虫剤を使用せず、堆肥だけで育てたお米で10s5,000円だ。それでもお椀一杯が35円。2杯食べたって70円。コンビニに行けばペットボトル500mlの水は120円で売っている。この水よりも安い。この価格が「不当に高い!」と目くじらを立てて論じるほどのものなのだろうか?それほどの高さなのだろうか。
私の村は山形県の穀倉地帯、置賜地方の中にある。周りは水田ばっかりだ。そんな俺たちの今年のJAへの売り渡し価格は1俵(玄米60kg)あたり10,500円だ。「戸別補償」を加えても12,000円ほどにしかならない。一方、東北農政局は最新情報としてH22産の生産原価を発表しているがその価格は米一俵あたり14,445円。これが通常栽培の原価だという。実際はもっとかかっているのが実感だが、ま、いい。今年も似たようなものだろう。それを12,000円で農協に売り渡す。ちなみに生産資材は一切値下がりしてはいない。下がっているのは農家の売り渡し価格だけなのだ。事業としては全く成立しない。販売価格が生産原価を下回るという異常な事態はすでに10年を超える。
ちなみに12,000円という米価は38年前のS49年(1974年)の13,615円を下回る。当時の朝日新聞の一ヶ月の購読料はいかほどだったかといえば1,700円。それが今日では3,925円となっている。およそ2.3倍だ。それを米の価格にあてはめれば一俵あたり33,223円とならなければならない。それが12,000円だからツライ。
新聞がほぼ毎日のように「日本の米は高い」と書いてきた。新聞にそんなこといえるか?今日、一ヶ月の新聞購読料が1,700円でやれますか?お前たちもそれをやってみたら、農家の気持ちも多少は分かろうというものだ。それをやった上でなお、「日本の米が高い。」といえば話を聞こうじゃないか・・・なんてね、だんだんタンカ口調になってくるのですよ。
水田とともに、数千年の歴史を刻んできた村はいま、少しずつ崩壊に向かっている。わが村の水田農家の平均年齢はおよそ67歳。日本の農家の平均年齢とほぼ一緒だ。後継者なんて育つわけがない。規模の問題ではない。大規模経営の農家の方が立ち行かないのだ。

<何が「新成長戦略」か>

TPPをきっかけにして大規模化をはかり、1.8haの水田平均耕作面積を20〜30ha(山間部では10〜20ha)に変えていくと言っているが、たとえそうなったとしてもオーストラリアの3,000ha、アメリカの180haと競争などできるわけがない。俺は身長190cmで体重100kgの体格だが、俺をアメリカだとすれば、日本は30haになったとしても1/6の大きさ。赤ん坊より小さい。俺とまともに競争して勝てるわけがない。
外国からの安いコメが入ってきても日本のコメは輸出すればいいという意見もないわけではない。しかし、これほど現実を見ない話はない。コメの年間生産量は848万tだが、輸出量は2010年実績で2,000t。全体の0.23%でしかない。一部の特殊的な例をもって全体の危機を覆い隠すことはできない。
近年、環境と生態系に負荷をかけず、何よりも食の安心、安全を第一とする循環農業、有機農業への流れができてきたように見えたが、一転して農法は、農薬、化学肥料により傾斜したものにならざるをえないだろう。省力化、コストの削減、土からの収奪と土の使い捨て。未来の世代にはぼろぼろになった土しか渡せない。それでも生き残ることは難しいだろうが、そんな農業、そのような「国づくり」が進行していくのだ。それを民主党は「新成長戦略」という。でも、それがどのような意味で「成長」なのだろうか。
TPPには未来はない。農業、食糧生産をそのような「成長」路線から解き放ち、未来の世代を脅かすことのなく、いまある日本型農業を守り、土や海、森を始めとした、いのちの資源を基礎とする新しい人間社会のモデル、農業を基礎とした循環型社会を広くアジアに、世界に示していくことこそが日本の進むべき道ではないかと思うのだ。

<それでも考えたい!農業・農村の今後の課題・展望>
―――――そのための前提条件について―----------

1、“土はいのちの源”の上に立って
長年、百姓してつくづく思うことは、「土はいのちのみなもと」ということだ。作物は言うまでもなく土の産物であり、その育った場所の土の影響を全面的に受ける。
かつて山形県で収穫したキュウリの中からおよそ40年前に使用禁止となった農薬の成分が出て問題になったことがあった。農薬は40年経ってもなお土の中に分解されずにあった。そこにキュウリの苗が植えられ、実がつき、成長し、汚染されたキュウリができてしまったというわけだ。同じような例だが、隣の市ではかつてお米からカドミュウムがでたこともあった。企業が廃坑になった鉱山の後始末を充分にしなかったからだが、農民にはつらいだけの話だった。米は全て回収されて焼却処分された。つまり、作物は土から養分や水分だけでなく、化学物質から重金属まで、いい物、悪い物を問わずさまざまなものを吸い込み、実や茎や葉に蓄えるということだ。それらは洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ身ぐるみ、丸ごと溶け込んでいるのだから始末が悪い。土の汚染はそのまま食べる者の汚染につながっていく。
一方、土の力の衰えは作物を通して食べる者の生命力、免疫力に影響を与えていく。
作物の中のミネラルなどの養分をみてみよう。「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2000年の野菜を比較すると(表参照)100gあたりに含まれるカルシウムや鉄分などの含有量は軒並み減っている。この傾向はここに上げた野菜にのみいえることではなく、ほぼ全ての作物にあてはまる。
原因は何か。それは土の力の減退にある。1954年まではほぼ堆肥だけで作物を作っていた。だが、60年代に入って堆肥中心のいわば有機農業から化学肥料や農薬を中心としたものへと農法を変え、効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土の力が衰え、作物の質が落ちて行ったということだ。子どもたちは50年前と比べ、その含有養分が数分の一に成分値が下がった作物を取り入れながら、骨や肉、血液を作らざるをえないのだ。子どもを取り巻く基礎的食料の質の劣化。このことが子どもたちの生命力や精神力に少なからざる影響を与えているに違いない。
このように、もしその土が汚れた土ならば作物も汚れ、食べる私達も汚れていく。もしその土が疲弊した土ならば作物のもつ生命力は弱く、それを食べる私達の生命力、免疫力も弱くならざるを得ない。「土はいのちのみなもと」なのだ。土を喰う。そう、私たちはお米や野菜を食べながら、それらの味と香りにのせてその育った所の土を喰っている。私たちはさながら土の化身だ。土の健康は即、人間の健康に結びつく。食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。生きて行くおおもとに土がある。そういうことだ。
土を食べ、土に依存することによって生きる。このことは我々のみならず、100年後の人たちにとっても、200年後の人たちにとってもかわらない。土の事情は食べる人たちに密接に影響を与える。土は世代を越えたいのちの資源なのだ。政治や行政の最大の課題が、人々の健康、すなわちいのちを守ることであるとすれば、そのいのちを支える土の健康を守ることは第一級の政治課題でなければならない。切実にそう思う。この食と土とのいのちの関係を抜きにし、面積や、規模だけを追う農業政策はすでに過去のものとしなければならない。必要なのは土に有機物や堆肥を投入し、農薬、化学肥料を極力軽減することが可能な政策、生産体制を築くことである。土を守る。これが前提の第一だ。

2、国民皆農を織り込んだ新しい道

個人的には、家族農業をそれ自体としてどう守るかというだけではなく(その課題はとても大切だが)、たとえば、農を志す都会の若者たち、農を織り込んだ暮らしを実現したいと思う市民や、自給的な生活を望む人たちにも広く農地を解放するような仕組み。農民的土地所有(利用)から市民的土地所有(利用)への転換。望めばできる国民皆農への道作りなどを織り込みながら、新しい生産のあり方、暮らしのあり方を提案する。
国民皆農といえばとんだ現実離れした話といわれそうだが、決してそうではない。今のロシアにその実例をみよう。ロシアのダーチャ。それは農業とは別の職業を持つ人々が、休業日を利用して自らのための食料を生産できる農地利用の仕組みのことである。このダーチャによって、1991年、ソビエト連邦が崩壊しロシア連邦になった政治・社会体制の激変時においても、国民生活はそれほど混乱することもなかったという。ロシアではこのダーチャのもと、都市の住民によって準主食であるジャガイモの8割、野菜の7割以上が、生産されている。わずかな年金しか受け取れない年金生活者にとっても、ダーチャの産物を自給にまわし、余ったものは換金の対象にすることができるという。
この市民的な農地利用が日本でもロシアのように国の自給率の多くの割合を占めるようになるにはずいぶん時間もかかるだろうし、それに見合う暮らしや労働のあり方、教育など、社会全体の仕組みも変えていかなければならないだろうが、決して不可能なことではない。
すでに家族農業を守ろうというだけではどうにもならない現実がある。しかし、だからといって、企業農業がその代替となるとはとうてい思えない。家族農業か然らずんば企業農業かではなく、それとは違う価値、それとは違うつながりのもとに、「環境」、「循環」、「健康」、「福祉」、「自給」、「教育」などを織り込んだ新しい農(土)と人々の関係を築いていくことが求められている。効率だけを追い求めてきた「成長神話」の中で、土から離れ、自然から離れ、人と人との結びつきもバラバラになってしまったかに見える社会のただなかに、土と食、土と暮らし、人と人の共同の原点に立ち返って、足元からもう一つの仕組みを創りだしていこうということだ。求められているのはこのような成長だ。
農業の一層の大規模化とケミカル化。挙句の果ての食の海外依存という道ではなく、家族農業と日本型「ダーチャ」の組み合わせ。これを次世代型農業の柱として政策化すること。これが前提の第二の条件であろう。

3、自給的生活圏の形成を

話は少し変わる。原発の話だ。以前、下のような文章をある新聞に書いた。その抜粋だがお読みいただきたい。
「地方に建設された原発は、地方の貧しさに付け入った政治の醜い姿をあらわしている。その上での今回の放射能被害。地方は息の根が止められる事態に追い込まれている。
以前、「朝まで生テレビ」で東京都副知事は「原発を都心からもっと遠くにもって行く必要があった。それが失敗だ。」と話していた。原発が必要だという人たちに共通しているのはその果実だけを求め、生まれるリスクを自分(たち)では背負わず、遠く離れた地方に押し付けようとすることだ。未来の子孫に肩代わりさせようとすることだ。今もなお必要というならば自分(たち)の暮らしの場に原発を誘致するよう働きかけるべきだろう。さらに放射線の汚染水も小分けしてそれぞれの地元や企業、家庭で引き受けるべきだろう。そのように働きかけとセットにして原発必要論を語るならば認めよう。果実とリスクを併せ呑むよう足元を説得してみればいい。それ以外のどのような必要論も詭弁である。地方を利用しようとするな。地方は都会に奉仕する家来ではない。地方は都会の植民地ではない。
都会の家来でなく、植民地でもなく、エネルギーから食料まで、小さくてもしっかり地域に根を下ろした自給圏の形成を目指すことが求められている。農業を基礎にした脱原発、脱成長の循環型社会を目指すこと。その余剰を他の地域に回す。この点では地方も都会もなく、一様に自立する。日本の社会をこのように構成しなおすことが求められている。「3・11」以後、少なくとも意識レベルでは生き方、暮らし方を変えようと考える人たちも多くなっていると聞く。不幸な中にも希望はある。この機を逃すことなく、エネルギー政策も食糧政策も新しく組み替えることが大事ではないかと思うのだ。」
電力のみならず食糧においても、大都会に一元的につながれてきた生産地と消費地の関係の転換を図ることが第三の条件だ。地域はまず何よりも大都会への供給地だ、というのは今までの考え方だ。地域の人たちの食、暮らしを考えた場合、大都会の前に地域の自給をまず実現し、その「余ったもの」を大都会へという順番だろうと思う。そのように地域自給圏を全国に形成する。そのモザイク的集合体として日本列島を構成しなおすのだ。その点では都会も例外ではない。圏内の農地を活かし、足りないところをなるべく近い県から支援してもらう関係を築くことで、災害に強い、自給的な地域に脱皮していくことが求められる。「国家的自給」の前に「地域自給」を。これによって日本の農と食の関係が今までとは全く違ったものになっていくだろう。(ここで言う生活圏、地域とはかつての「藩」の広がりを指している。)
日本の「食料・農業・農村への提言」を論ずるにあたって、今や小手先の手直しではどうなるものでもないということをはっきりさせなければならない。抜本的な視点からの政策が求められるところだ。もとよりこのことはTPPとは両立することはできない。
そう、これらの前提条件のすべてはTPPとは相いれない。TPPの阻止こそ食料・農業・農村にとっての「希望」の前提条件である。

<風前にともし火をかざす!だからこそ・・>

TPPは日米関係の総仕上げとしての役割をもっている。これによってアメリカは日本を政治的、軍事的のみならず、社会・経済システムと食料の面においても従属関係におくことができるだろう。アメリカと日本国内「ポチ」にとっての総仕上げ、「理想的な日米関係」が成立するということだろうか。
私は今まで農の危機を時代の転換期ゆえの危機と捉え、「対案」をもって時代に参加しようと訴えてきた。しかし、日本がTPPに参加することになれば、各地のさまざまな「対案」も、嵐の中の小船のように、大波にもみくちゃとなり、沈没してしまわざるを得ないだろう。まず、政府にTPPへの参加を断念してもらわなければならない。それを通してのみ、希望の道が開かれていく。もともと「対案」の平穏無事な成長などはありないが、TPPはひどすぎる。

今は時代の転換期。風前にともし火をかざすことが求められているが、すべてはTPPを葬ってからだ!

(註)ただ、それらは日本がアジア各地でやってきたこと。フィリッピンなどの山々をはげ山にしてきたのは日本である。それへの反対運動も当然あったわけで、私たち日本人はTPPの前のアメリカ国民がそうであるように、それには無関心であった。いま、TPPの議論において、「被害者」、「弱者」の立場に陥りがちだが、加害者の視点かもとらえ返してみる必要があろう。大切なことは日本を含め、アジアの人々の暮らしや権利にとって、TPPやグローバリズムはどのような意味を持つのかを明らかにすることである。

2011.12.12:kakinotane
[2011.12.21]
加藤登紀子さんが出演した、ラジオ深夜便こちらで聴けます。 (くみ)

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