ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

詩人で農民の木村迪夫さんの世界を描いた「無音の叫び声」に寄せた拙文です。
映画は全国公開されています。
               以下 
 私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期があった。田舎を出て都会に。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。叶わぬまでもその文脈で生きて行くことが、これから始まる人生だと考えるに至り、私は山形県の一人の農民となった。

 そんな私にとって、同じ山形県の農民で、ひとまわり上の世代がとてもまぶしく映っていた。この中には木村迪夫さん、星寛治さん、斉藤たきちさんという農民文學の同人誌「地下水」に集う方々や、佐藤藤三郎さんなど山形が全国に誇る農民が数多く存在していた。彼らは今でも第一線で農業を営みながら、詩の創作や社会評論、批評活動などを続けている。
 私はそれらの文章に接しながら、どれだけ励まされてきたか分からない。私だけでなく、多くの後輩たちが今まで何とか農民としての誇りを失わずにやって来られたのも、この方々がいてくれたおかげだと思っている。

 映画「無音の叫び声」がようやく完成した。
この映画は、その先輩たちの一人、上山市の牧野で農業を営む詩人・木村迪夫さんを通して戦後日本の農村を描いたものだ。
 木村さんは11歳の時、父親を戦争で亡くしている。山あいの小さな村、当時、貧しいと言えばみんなが貧しいのだが、特に貧しい農家の長男として、あるいは祖母と母と子どもだけの、村の中でも最も弱い立場の家族として、小さな耕地を耕し「泣きながら」生きてきたという。そんな毎日の中で、生きるために詩を書き、詩にすがって生きてきたとも語る。

 その時々の国の政策によって翻弄され続けてきた農業。木村さんは、上から下りてくる政策に安易に同調することはなかった。
 私がそんな木村さんに特別の親しみを持つようになったのは1977年から始まるコメの「減反政策」反対の取り組みからだった。村ごとに減反面積が割り当てられてくる。一緒に生きてきた村人の中で「減反拒否」を行動で示すことは極めてキツイことだった。拒否する側は農業を軽んずる国の政策に同意するわけには行かないということなのだが、具体的にはその時の村の「係り」とぶつかることになる。村人同士の対立になってしまうのだ。どうするべきか。農民としても、村人としても煩悶する。この苦しさは、私も減反を拒否した側に立ちながらも、破たんしたからよくわかる。私の場合は帰農して数年目だったが、村に生き続けてきた木村さんの厳しさは尋常ではなかったはずだ。

 木村さんには向う傷がいっぱいある。それは相手がとてつもなく大きな力だったとしても、けっして自分をごまかすことなく、自分自身への誇りを何よりも大切に生きてきた証(あか)しだ。まさに農業の世界を木村迪夫として生きてきたのだ。
 「この70年、節目節目で流されまいと踏ん張ってきたが、結局は時代に流されてきたのだろう。だが、苦難の道ではなかったし、自分を見失わずに生きてきたと言う自負はある。」(全国農業新聞8/14)

映画はそんな世界を木村さんの語りとともに描きだす。

                       (山形新聞)


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