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お掃除志隊 in 石巻2

  • お掃除志隊 in 石巻2
< 床下作業 ヘドロ取り⇒高圧洗浄機による洗浄⇒消石灰撒き >


 5月4日の石巻お掃除志隊。
 さすがにGWとあって、あちらこちらでボランティアさんがいっぱいでした。大型バスからお揃いのジャンパーで登場し、意気揚々と現場へ。どんな現場なのかな?
 私たちも東京からの応援組を含め、総勢30名で4か所に分かれて作業しました。

 今回の割り当ては、閉所恐怖症の私にはかなりハードルの高い床下作業! わずか50cm角の入口を見た瞬間、正直のところ「ああこりゃ無理だ」と思いました。


<東京から応援に来てくれた女性も床下で大活躍>

 しかしそうも言っておれず、意を決して中へ。入るまでは恐怖でしたが、入ってしまえばなんとかなるものです。

 床下表面のヘドロをスコップですくっては土のう袋へ詰める(これがかなり重たい!)。その重たい袋を匍匐(ほふく)前進しながら入口のほうに持っていく、まずはその繰り返し。

 狭い中でのハード作業で汗だくです。カッパは泥まみれ。マスクの息がメガネを曇らせるので、メガネは使えません。
 5名同時にもぐってまずはヘドロ取りが完了。一旦外に出たときの空気がおいしかったこと!

 休憩も束の間、高圧洗浄機で床板の裏側や基礎柱にへばりついたヘドロを落とします。これをしっかりやらないと臭いが残ってしまうのです。
 私の役割は投光器を持って洗浄機を当てる場所を明るくすることでした。投光器が重たくて、これまた結構しんどい作業でした。

 そして仕上げは消石灰を床下前面に撒く作業。もうこの段階になると何でもできるぞ、っていう気分です。
 普通なら素人がやるような作業ではないのですが、この非常事態、そんなことを言ってたらいつまでたっても片付けは進みません。

 何しろそこに住んでいる人は他にもやることが山ほどあるのです。多少なりとも精神的に余裕のある我々が動かないことには前へ向かう気持ちも盛り上がっていかないことでしょう。

 そんな使命感を感じつつ、まだまだしばらくお掃除志隊は続けていきます!

 東京からボランティア参加してくれた人たちの感想、
 「やはり画面からは想像できないことがたくさんあった」
 「機会を見つけてまた来たい」
 「ぜひ感じたことを周りに伝えたい」
2011.05.06:壱岐産業:[事務局ノート]

ハモコミ通信2011年5月号「忘れ得ぬ人」・「正論」

  • ハモコミ通信2011年5月号「忘れ得ぬ人」・「正論」

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コラムで見つけた ちょっといい話 その4

今回もある小冊子より、コラムをご紹介します。

 

■◇■  忘れ得ぬ人   ■◇■

 人には人生の中で大事な日が存在します。大切な人がなくなった日、つまり「命日」が挙げられるでしょう。

 人がこの世から去った日は、その人に対する恩と感謝を有する人にとっては、忘れ得ぬ日です。忘れられない日がある限り、そこに忘れられない人が存在するといえます。

 故人の供養として、仏教では祥月命日を設けています。月ごとに故人を偲ぶ機会が設けられているのです。それはあたかも忘れ得ぬ人と互いに語り合う場といってもいいかもしれません。

 生前に様々な形で影響を受けた人には、逝去してなお教えを請うことができます。今は亡き方々の姿を自分の目の前に置き、自分自身を律する糧とすることができるのです。

 大切な人の思いに応える一生を貫くためにも、「あの人が今の自分を見たらどう思うだろうか」と自問自答をしていきたいものです。

■◇■    ■◇■   ■◇■

 毎月決まった日に、原点に帰る、思いを新たにする、そんな日を作ることによって故人の思いがつながっていく。仏教の考え方、とてもしっくりきます。

 

■◇■  正論   ■◇■

 Y氏は路上喫煙禁止地区で喫煙している男性を目にしました。

 人目を気にすることもなく、傍若無人にタバコを吸い続ける男性の態度に腹を立てたY氏。大きな声で「おいお前、タバコを消せよ!」と注意をしました。すると男性は不機嫌そうにタバコを投げ捨てたのです。

 不快な思いを消せないY氏は、友人にその経緯を伝えました。すると友人からは「Y君の主張は正しいけれど、その言い方だと相手が気を悪くするのも分かるよ」という言葉が返ってきたのです。

 友人の率直な意見に対してY氏は、注意した時の自分の言動と表情を思い起こしました。顔は強ばり、態度が高圧的になった自分に気づかされました。

 自分は正しいことを言っているという思いから、〈相手を責める心が先行し、感情的になってしまった〉と、Y氏は反省しました。

 「自分は正しい」は、時として「相手は間違っている」という責め心を呼びます。「正論」が相手を制する「制論」とならないよう、十分に留意したいものです。

■◇■    ■◇■   ■◇■

 責め心。イソップ物語「北風と太陽」の北風を思い起こします。

 

お掃除志隊 in 石巻・東松島

「 動けば何かが変わる 」

 仙台ゾウ・プロジェクト有志でお掃除志隊を結成。被災したメンバーの家族・親戚宅を中心に、ヘドロに漬かった家財道具の運び出しや、床下にたまったヘドロの汲み出しなどを毎週末行っています。これまで6回実施のうち4回参加してきました。よろしければHPをご覧ください。

 この中で感じたのは、つながりの大切さです。一人ではできないことも、仲間が集まれば何でもできそうな気になり、そして動けば何かが変わります。途方に暮れそうな状況も、魔法のようにキレイになっていきます。

 徳島AWAおんなあきんど塾は、バザーで得た収益金で宮城県からモノを仕入れ、復興市を行ってくれるそうです。こういうのがこれからうれしい支援ですね。

 

2011.05.03:壱岐産業:[事務局ノート]

お掃除志隊 in 東松島2

  • お掃除志隊 in 東松島2
<未来の希望の星 とっても可愛い3兄妹>


本日のお掃除志隊は東松島市牛網地区。
海まで200mくらいという激しいところ。

周囲の家のほとんどが全壊という中にあって、H邸はしっかりと生き延びていました。
新しく立派な造りであることの他に、幸運に助けられました。

正面から来た大津波に対して、側面からの波が手前でぶつかって、勢いが分散したらしいのです。


ここでのお掃除ボランティアは、ゾウプロとしては3日目。
さすがにずいぶんきれいになりました。



庭で楽しそうに遊んでいた3兄妹。
震災などどこへやら、まさに希望の星です。

特に末娘のAちゃん。何度も何度も「おんちゃん達、うちをきれいにしてくれてありがとう!」と可愛い声で言ってくれ、何だかとってもうれしくて、涙が出そうでした。
2011.04.30:壱岐産業:[事務局ノート]

お掃除志隊 in 東松島

  • お掃除志隊 in 東松島
<うず高く積まれた震災廃棄物>


先週の日曜日、仙台ゾウ・プロジェクト第2回目の「お掃除志隊」をおこなってきました。

東松島市とは、鳴瀬町と矢本町が合併してできた新しい市。
仙台から行くと、松島町の次、その先は石巻市です。

旧鳴瀬町は、野蒜海岸が海水浴場として親しまれていました。
ここは本当に壊滅。そしてほとんど手つかず。恐ろしい光景が広がっていました。

町場の小野地区が今回のお掃除志隊の活動場所1軒目。
このあたりは床上まで津波をかぶったものの、家が倒壊するほどではありませんでした。

今回16名の我が部隊。
午前中に終わるかな? というパッと見の見立てでしたが・・・。
結局、2㌧車満載で旧矢本町の震災廃棄物集積所を5往復することになりました。

写真は家電の山。
震災廃棄物も分別する日本のきめ細かさ。いいのか悪いのか?

可燃ごみ、畳・布団類、瓦礫、木材、金属・・・。いずれも圧倒されるほどの量でした。
人口4万人ちょっとの東松島市でもこれなんだなぁ!

通常の23年分と言われている宮城県の震災瓦礫。
その一つ一つは、ついこの間までそれぞれの家族で普通に使われていたもの。
思い出の詰まったものもたくさんあるでしょうに。

お年寄りだけ、女性だけの世帯では、本当に途方に暮れるしかないような状況がここにもそこにもあそこにも。

つながりを基にしたお掃除志隊の活動場所はまだまだたくさんあります。
2011.04.28:壱岐産業:[事務局ノート]

お掃除志隊 in 石巻

  • お掃除志隊 in 石巻
<お掃除志隊のメンバー20名と建築工房零のボランティアさん>


仙台ゾウ・プロジェクト有志からなる「お掃除志隊」が結成され、
今後しばらくの間、土日を中心に沿岸部の被害の大きかった地域で活動予定です。

第1回が4月24日(日)。
20名が参加してくれました。

3か所を回ったのですが、場所によって被害の差がかなりありました。

駅周辺も1階はほとんど海水にやられています。
それまで普通に使われていた家具・家電品、そして思い出の品々が、
道路脇いたるところにうず高く積み上げられており、それはそれで悲しい光景でした。

さらに海寄りに行くと景色が一変。
特に石巻市門脇浦屋敷地区は惨憺たる光景でした。



ヘドロに漬かった家具や畳の重いこと。
半日がかりでようやく写真の程度にまで片付きました。

年より子どもだけでは途方に暮れるだけだったでしょう。
あまりに重く、あまりに臭く、あまりに悲しくて。

箪笥からはきれいな着物や帯なども出てきます。
ここで亡くなられたおばあさまのでした。

写真や映像からは伝わってこないのが臭い。
冷蔵庫や冷凍ストッカーは最悪です。
ヘドロも乾いていればまだましですが、濡れていると相当臭い!

結構重労働な1日でしたが、
参加したメンバーは心地よい疲れを感じながら、また参加したい! と意気込んでました。

今週末は東松島市へ行く予定です。
2011.04.21:壱岐産業:[事務局ノート]

今、自分にできること

  • 今、自分にできること
友人のAさん。
地域ネットワーカーを自称しているだけあって、こういう震災の時、全国の仲間たちからいろいろな支援物資が大量に届いたそうです。

それ自体そう珍しい話ではないのですが、Aさんの場合、その内容が独特です。

伊豆七島利島からは、山菜の王様シドケが10箱と同じく山菜のアシタバが1箱、沖縄伊江島からは島ラッキョウが3箱。

当然1人で食べきれる量ではありません。1人で分け切れる量でもありません。
勢い同じようにネットワークをたくさん持った人のところにまとめてハイ、という具合。
私のところにもお鉢が回ってきた、というわけです。

非常食だったり下着だったり、そういうのももちろんうれしいのですが、1ヶ月経過したこの時期には、こういうのもアリだな、と思いました。
というか、とってもうれしいものでした。

それは送り主の気持ちが想像できるから。
「自分たちにできることは何だろう? やっぱり自分たちが日ごろ精魂込めて作っているもので貢献しよう」
そんな感じだったのではなかったでしょうか?


さて、一昨年弊社の25周年記念事業として取り組んだ仙台ゾウ・プロジェクトは、
その後も活動の勢いを止めることなく、今でも100名以上の仲間たちが熱く活動中です。

『本物のゾウさんと子どもたちの直接のふれ愛』をテーマとした企画でしたが、
副産物として残った市民のボランティアネットワークがまさに宝です。

今、この仙台ゾウ・プロジェクトとして、震災復興支援プロジェクトに取り組んでいます。
大上段に構えることなく、できる範囲で身近な人の必要を満たしていこう、
というごくありふれた活動です。
ありふれてはいますが、地に足が付いている!
こういうのが地域にたくさんあればいい、そんな感じです。

震災後から今日までほぼ1ヶ月間のメールによる情報交換が750回。1日平均25通です!

最初はお互いの無事を確認し合うところからスタートし、空いているスーパー、食事のできるところ情報、ガソリンスタンドの待ち時間、これだけでも相当貴重でした。

1週間後には北海道から調達した大量物資によるメンバー内プチマルシェを開催。
モノが手に入る喜びに加え、顔を合わせた喜びを実感した1日となりました。

2週間後には南三陸町のメンバー家族への物資支援(「気持ちまでは流されなかったから」参照)。

その後、津波で家を流された人への物資調達、法的必要情報、アパート不動産情報、仕事の紹介、こんな時に勇気が出るいい言葉、気をつけるべきこと・・・。

100人もいると、弁護士から公認会計士、経営者、看護婦、県庁マン、保険関係、学校の先生、などなどその道のプロ集団です。

阪神淡路から学ぶことも多いのでしょうが、まったくあてはまらない部分も多いのです。
我々は我々の内側から、戸惑い間違えながらも、やはり内側から立ち上がるしかない、
そんな思いを感じています。
2011.04.10:壱岐産業:[事務局ノート]

ハモコミ通信2011年4月号 弊社社員より「東日本大震災に思うこと」

  • ハモコミ通信2011年4月号 弊社社員より「東日本大震災に思うこと」

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東日本大震災に思うこと(弊社社員より)

 

AYさん

 今も続いている東日本大震災で感じたことは日本人はとても道徳的だということです。
 あの大きな揺れの後、最初にそれを気づかせれたのは同僚のIさん。「セブンイレブンに行くよ」と声をかけられ、頭の中は家族の食料のことでいっぱいになりました。カゴいっぱいにパンなどを入れていたとき、Iさんから「後の人の分も残しておこうね」と言われ、ハッとしました。私は自分のことしか考えていなかったのです。
 社長は非常用に常備していたお水をたくさん持たせてくださり、Sさんは自分の家よりも先に、ヘルパーとして介護を担当しているお宅に向かいました。
 毎日続いた水汲みや個数制限の買い物にしても、列をつくり何時間待たされてもお店の人に「ありがとうございます」とか「お疲れ様です」などと言葉にしている人達が多かったと思います。小さなトラブルはあったかもしれませんが、どのニュースを見ても感謝している姿が多かったように思います。
 日本人は辛抱強く心優しい人が多いことに気づかされました。被災された方々が1日も早く普通の生活に戻り、笑顔になれる日が来ることを願っています。

 

Sさん

「大丈夫だった?」「がんばろうね」「ありがとう」「感謝感謝」
こんな言葉をかけあって何とかここまで生きてきた。
水道から水が出るありがたさ。
トイレの水が流れ、またタンクに水がたまるありがたさ。ロウソクを使わなくても部屋を明るく照らす電気。
スーパーに行って食パンと牛乳が売っていた時の喜び。一生忘れられないだろう。
今までの自分の心と生活態度をリセットできたことに感謝し、多くの失われた命の分まで精一杯生きていきたい。

 

Iさん

 去年の1月に「カキフライ定食」を食べた女川が、10月に「はらこ飯」、今年の1月に「ほっき飯」を食べた亘理が、津波に飲み込まれてしまいました。
当たり前の風景が、一瞬にして無くなってしまいました。
「すんごい悪夢」ってことに修正願います。

 

Hさん

 便利な生活が当たり前だった私は、いかに資源を無駄使いしていたかを反省するいい機会になりました。
 電気・水・ガスが使えない生活。少ない水を大切に使って顔や食器を洗い、トイレに汲み置きした水を流す。
冷蔵庫内で駄目になりそうなものからカセットコンロでただ煮込んだスープにほっとし、普段より頭を使って材料を大切に使えたことに大満足して…。
 電気・水・ガスを供給するためにたくさんの方々の努力があることも再認識しました。感謝の気持ちを忘れず、復旧の後も大切に使おうと思います。

 

AKさん

 まずは被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
 今回の大震災は、まさかと思うことばかりでした。
 今まで体験したことがない揺れ、しかもとても長くて恐怖を感じました。また、映像を通してですが、大津波の恐怖を感じました。さらには原発の事故についても未だに不安だらけで、特に原発周辺の住民の方々や農家の方々の姿を見ていると胸を締めつけられる思いです。
 時間がかかるかもしれませんが、被災地の方々に普通の生活が取り戻せるよう祈っております。

 

2011.03.31:壱岐産業:[事務局ノート]

東日本大震災で感じたこと

  • 東日本大震災で感じたこと
 仙台在住の我々としては、ライフラインはガスを除いて復旧してきており、JRの在来線、高速道路なども日々一歩ずつ前進が見られています。

 個人としては、今後も継続的にボランティアとして沿岸部で被災した方々を中心とした支援活動を続けていきたいと思っていますし、会社としては復興ツールにフォーカスした取り組みを継続していきます。何しろ沿岸部の状況は本当に凄まじいものがありますから。

 さて、そんな状況下ではありますが、ハモコミ通信に私の「感じたこと」を書くスペースがなかったので、ここで少しだけ書きとめておきました。


 この震災でうれしかったこと。
 それはなんといっても心遣いです。

 たくさんの友人からの電話。
 30年ぶり、20年ぶり、スペインから、韓国から、兵庫から…。メールもいいけれど、肉声からはその人の温かさがじかに伝わってきました。

 中越地震を経験している新潟県十日町市の友人からは、まさにかゆい所に手が届くような品々が。
 東京では手に入らなかったガソリン携行缶を岡山の実家から送ってくれた友人もいました。その隙間にはMerry’s(?)のチョコレート。甘いものもホッとするんですよね、こういうときは。

 いずれも心遣いが形となって表れたもの。
 ACのCMじゃないけれど。
2011.03.31:壱岐産業:[事務局ノート]

南三陸町の元気な家族 「 気持ちまでは流されなかったから 」

  • 南三陸町の元気な家族 「 気持ちまでは流されなかったから 」
<鉄骨の階段だけを残し、加工所と家が流されてしまいました>



南三陸町と言えば、今回の大津波の被災地として全国に名前が行き渡ってしまいました。
志津川町と歌津町が合併してできた町ですが、どちらも牡蠣養殖のメッカ的存在でした。

弊社の「風のコラム」でもとりあげた「歌津の牡蠣」(1/18、1/23、2/11)。
しばらく食べられないのは我慢するとして、
懇意にしている生産者が大打撃を被っているのを黙って見過ごすわけにはいきません。

この歌津の高橋家と交流のあった仲間たち(主に仙台ゾウ・プロジェクトのメンバー)が立ち上がり、新潟からガソリン・軽油・灯油を調達してくる班、それぞれの持ちより品をとりまとめる班、そして現地に届ける班、という具合に総勢50名ほどが関わってくださいました。

家族4名が皆無事だったのが唯一の救いで、その他の財産(家、加工所、船、作業小屋、車4台)は跡形もなく流されてしまった高橋家。

あの大津波から2週間ほど経過した3月27日(日)、車2台に大量の支援物資を積めるだけ詰め込んで行ってみました。

涙の再会!
でも、彼らが泣いたのはその一瞬だけ。

その後はこれまでと変わらぬ笑顔、太平洋よりも広い心が言葉となってほとばしり、気がついたら4時間半!
雪まじりの海風に体を冷やされましたが、心だけはぽかぽかするひとときでした。

父七男さん
「オレはここで暮らしたい」

息子栄樹くん
「この仕事、ちょうどおもしろくなってきたところでやめたくない」

これで母和子さんの心のスイッチが入りました。

もうこの一家は完全に腹が据わっており、諸々不安要素を抱えながらも、
もう被災者モードではなく、難行苦行に立ち向かう戦士のようなモードになってました。

やはり人は、どんな状況にあるかということよりも、どんなミッションを持っているか、
これで決まるようです。

何年後になるかわかりませんが、彼らが三陸の海とともに育む極上の牡蠣をふたたび味わえることを願ってやみません。
2011.03.29:壱岐産業:[事務局ノート]

温かい心に癒されます

こんにちは、長谷川です。
おかげさまで少しずつ少しずつ前に進んでいる感じです。

今日は南三陸町で個人宅に避難している友人から電話がありました。
自衛隊ほか、たくさんの方面から支援物資が増えてきて心強いということでした。
もっとも個人宅の場合、避難所のようにはモノはそろわないようですが。
やはり苦労しているのがガソリンのようです。

さて、障害のある人の呼び方として、最近は欧米式に『チャレンジド』という言葉がよく用いられますね。
BY GOD というのが省略された言葉で、神に試されている人、つまりその試練に耐えられそうな選ばれし人、という意味だそうですね。

今回の大震災は、まさに我々日本人に突きつけられた『チャレンジド』

すでにニュースでも紹介されましたが、アメリカのCNNやBCCのコメントです。
「有史以来最悪の地震が、世界で一番準備され訓練された国を襲った。犠牲は出たが他の国ではこんな正しい行動はとれないだろう。日本人は文化的に感情を抑制する力に優れている。」
暴動も起きず、列を作って並ぶ姿、各自ができることを協力し合って乗り切ってる風景を見て、世界中が驚きと絶賛のコメントをしているそうです。

そんな我々だからこそ選ばれたのかもしれない。
だったらやはりチャレンジしなくちゃ!

9・11テロの追悼集会で、当時のニューヨーク市長のジュリアーニさんはこんなスピーチをしました。
「ニューヨークは、元に戻らないという人がいます。確かに、その通りです。なぜなら・・・ ニューヨークは、もっとよい街になるからです」
日本も東北ももっとよくなることでしょう!

最後に感激の涙が止まらなかったYOUTUBEをご紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc

これまでにたくさんの方々から本当に心のこもった温かい励ましの言葉をいただいてきました。こんなときだから本当に心に沁みます。

本当に本当にありがとう。ありがとうございました。

使命を果たしつつ亡くなった方、使命半ばで亡くなった方、それらの方々の分も働かなくちゃ。傍楽(はたらく)ぞー!
2011.03.22:壱岐産業:[事務局ノート]