お掃除志隊 in 石巻4
男衆の体力限界ギリギリのハード作業でした。
20kg以上はあろうかというふたを持ち上げると、ハエがモワッと舞い上がります。
同時に鼻をつくものすごい臭い!
石巻大街道北地区は、床上およそ1mの浸水が2日半続いたところ。
油や薬品など、様々な異臭混じりの海だったそうです。
このあたりは家の中の掃除はほぼ終了しており、いよいよ側溝を掃除する段となり、応援を求められました。
町内会の人たちとの共同作業。
あまり若い人はいません。ほとんどが60歳台、70歳台の方々。
今回からマスクをDS1という検定付きのものに変えました。
それでもヘドロの臭いは27℃という気温に蒸し返され、マスクを抜けて住民の生活の大変さを思い知らせてくれます。
だからこそやりがいもあります。
若い力が必要とされています。まだまだ、まだまだ、ま~だまだ。
作業していてわかったのが、地震の影響で微妙な傾斜のズレが生じているということ。
本来スムーズに流れるはずのものも、沈殿したり逆流したりしてしまっています。
それだけに少しずつ土のう袋に詰めていくという地道な作業が続きました。
この土のう袋を押さえている人が、よりヘドロに近いので実は大変です。
さて、そんな地道な作業を朝9時から3時まで、いや~みんなよくがんばったなぁ!
これで少しは臭いの元が減ったんだなぁ、と。
それにしても石巻全体で側溝掃除にまで手が回っている所は少ないと思われます。
正常化するまで気の遠くなるような道のりが続いています。
一歩一歩やるべきことをやっていくしかないのです。
今回は、仙台出身で東京で映像作家として活躍中の中津川さんが「復興1号」に乗って応援に来てくれました(写真右端の人)。
http://nakatz.blog.so-net.ne.jp/2011-04-09
エコノミークラス症候群防止体操 そして炊き出しボラ
牡鹿半島の先端近いところに、かつて捕鯨基地として栄えた鮎川地区があります。
旧牡鹿町は今は石巻市に合併されていますが、石巻市中心部から小1時間かかるため、仙台からだと高速道路を乗り継いでも約2時間かかってしまいます。
その不便さから震災ボランティアが手薄の地区と聞き、我らゾウプロの出番だ、ということで日曜日に18名で行ってきました。
石巻市中心部は路上の震災ゴミの山がすっかり片づけられており、大きく前進していると感じました。ところが牧山トンネルを抜けて渡波地区に入ると光景が一変しました。
震災後1ヶ月目くらいの状態がそのままでした。
渡波地区は地盤の低下によって、満潮の度に海水が沁みあがってくることでニュースにとりあげられていましたが、まさにその現状を車窓から確認しました。
入り江毎に現れるはずの牡鹿半島の美しい漁村はことごとく壊滅状態。
そんな悲しい光景を見ながら大きな地割れと陥没道路をクネクネ行くと、やはりこちらもすっかり変わり果ててしまった鮎川に到着。
避難所となっている清優館デイサービスセンターが今回の活動場所。高台にあり海のほうが見えないため、のどか、という言葉がぴったりのところでした。
「この時間は20人くらいしかいないんですよ。日中は若い人たちはいろいろやることがあって、夕食に合わせて帰ってくるもんで」とセンターの方。
「十分ですよ。日中避難所に残っている人が一番心配なんです。外に出ている人はエコノミークラス症候群にはなりませんから。」と先生。
T先生、S先生、Y先生、3人のエコノミー症候群防止体操の先生の補助として、私たちがお年寄りと一緒に体操をしました。
さすが専門の先生だけあって、途中の解説がいちいち納得がいくし、わかりやすく雰囲気づくりも上手でした。まあ雰囲気づくりのお手伝いくらいはできたかも。
午前中は1時間弱この体操を行い、午後は2班に分かれ玄関のお掃除と花壇の草取りを行いました。18人の元気があっという間にキレイをつくりあげました。
そして炊き出し。
ごはん、みそ汁、つるむらさきのお浸し、ジャガイモのカレー炒めを夕食分として、ポテトサラダを翌日分として作りました。
配膳をしていて驚いたのは、おばあさんたちの食欲。なかなか旺盛でした。
「もうちょっとよそって」と言われてなんだか頼もしく感じました。
たったこれだけのお手伝い、半日だけの滞在だったのですが、帰るときほとんどみんなが見送りに出てくれました。
夕食の時間になると、若い人たちもみんな戻ってくるので活気が出てくるのです。
この記念撮影の周辺にも大勢の人たちがいたのです。シャイな人が多いので一緒には入らないのですが。
何だかとってもうれしくて、いっぱい手を振り、また必ず来ることを約束しました。今度はみんなに記念撮影に交ざってもらおう!
帰り道、同じはずの風景がまったく違って見えました。ああ、ここは、あの人たちが住んでいたところなんだ・・・。涙が熱くこみあげてきました。
スタッフルームを新設しました
当面は社長の投稿が多いかもしれませんが、少しずつ全社員が投稿しやすい環境を整えていきたいと思っています。
何しろ弊社のモットーは、ハーモニーのあるコミュニティづくりのお手伝い!
まずは足元からジワリジワリ進めていきますね。
仙台発・大人の情報誌 「りらく」 に掲載されました
仙台発・大人の情報誌「りらく」は、私がほぼ毎月読む唯一の雑誌。
単に美味しいものやホットな話題を伝えるのではなく、携わっている「人」にフォーカスすることを基本としている点が面白いのです。
5月号は震災のため休刊となり、その分6月号を震災復興特集号と位置付け、「復興応援企画 元気でやってます! 困難を乗り越えて 一歩、また一歩」という特集が組まれました。
弊社が取り扱っているWINPROが編集者の目にとまり、お声がけいただいた次第です。
電気のない暗い数日間を体験した人ならおわかりですが、どこかにちょっとでも明るいところがあるとホッとするものです。
WINPROは、風力と太陽光のハイブリッド型発電です。
外部電源に頼ることなく、照明灯を1年間絶やすことなく灯し続ける頼もしい存在です。今回のような大規模停電の時などは、日中は携帯充電ステーションとして周辺住民に便宜を図ってあげることも可能です。
詳細をお知りになりたい方はこちらまでご連絡くださいませ。
info@iki-sangyo.co.jp 担当:長谷川嘉宏
ハモコミ通信2011年6月号「仕事はじぶんでつくるもの」・「残されたソース」
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コラムで見つけたちょっといい話 その5
最近これにばかり頼ってしまっていますが(苦笑)、ある小冊子でみつけたいい話をご紹介したいと思います。
■◇■ 仕事は自分でつくるもの ■◇■
今年、楽天イーグルスのコーチに就任した田淵幸一氏。野球人として力を発揮できたのは、ある恩師の一言がきっかけだといいます。
幼い頃から引っ込み思案だった田淵氏に、野球の楽しさを教えてくれたのは、小学校の担任でした。野球の面白さに目覚め、その後法政大学に進学。念願の野球部に入部しましたが、新人は球拾いが日課でバットすら振れませんでした。
それに嫌気がさした時、氏は「自分のやるべきことは自分でつくる」との恩師の言葉を思い出しました。バッティングキャッチャーを買って出たり、率先して下働きに徹する努力をした結果、ポジションを確保できたのです。
「やらされている」という気持ちでは、自分の成長はいつまでたっても望めません。自ら積極的にやるべきことを見つけて果敢に取り組むことが、仕事で成果を出す方法の一つです。
「自分がやる」との気概を持ち、与えられた仕事以上の働きを常に心がけていきたいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
グルメ情報サイト(株)ぐるなびの滝久雄会長の若い頃からの信条は、「やらなければならないことは、やりたいことにしよう」だそうです。田淵氏の例とは少し意味合いは違いますが、いずれにしても前向きな姿勢で結果を残していきたいものですね。楽天ガンバレ!
■◇■ 残されたソース ■◇■
帝国ホテルの料理長を26年間努めた村上信夫氏は、厨房出身で重役になった唯一の人です。10代で厨房に入った3年間、氏の仕事は鍋磨きだけでした。
当時、氏と同じように何人もの少年が入って来ましたが、1年以内にはほとんどが辞めていきました。
その中で、氏は「日本一の鍋磨きになろう」と決意し、銅の鍋を自分の顔が映るくらいピカピカに磨き続けたのです。
やがてその働きぶりは、先輩たちの知るところとなりました。使用した鍋が返される時、普通はソースの味がわからないように洗剤が入れられてくるのですが、村上氏にだけは、ソースを残したまま返されてくるようになったそうです。
それは先輩たちの秘かな応援でした。村上氏はそれを舐めて隠し味を勉強し、一人前の料理人になることができたというのです。
頼まれごとは「試されごと」といいます。人からものを頼まれる際は、その受けっぷりから仕事ぶりまでが試されています。今置かれている状況を喜び、依頼された仕事を黙々とやり遂げましょう。人生を開く扉は目の前にあるのです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
日本一の鍋磨き、そう決意した瞬間から、気合いと共に新しい視点が加わったことでしょう。日本一だとすれば、この程度ではいけない、こんなことでへこたれている場合じゃない、もっと工夫はできないか・・・。
一次避難所 & 二次避難所
何もなくなってしまった、という筆頭は陸前高田市ではないかと思います。あそこの何も無さはハンパじゃない。
閖上は子どもの頃、父に連れられて、毎週のように魚釣りに行った思い出の地。仙台ゾウ・プロジェクトとしても、ここで開催された「8時間耐久ママチャリレース」に2年連続参加したという縁があります。港朝市が好きで、砂丘から眺める海も好きで、何度も足を運んでいました。
だからどこにどんな建物があって、と、町の様子はほとんどわかっていたのです。それだけに、「・・・」。
今回は、お掃除志隊のメンバー10名で、この閖上から仙台空港の脇を抜け、山元町の一次避難所、青根温泉の二次避難所において、現場の生の声を伺うツアーとしました。
これまで石巻方面ばかりだったので、県南の実情も見るべきだ、と思ったのです。
<写真中央がW先生>
山元町は死者行方不明者数が約750人。町民数16700人だったわけですから、かなり大きな影響と言えるでしょう。
メンバーの知り合いW校長先生が総監督をしている山下中学校を訪れました。
この気さくなW先生。ご自身も自宅を失った避難民なのですが、とにかく明るい!
避難所の自治運営をじょうずに主導し、6月中旬には避難所解散、という町の方針に沿ってやるべきことをすべてやっているのです。この人に任せておけばバッチリ、そんな頼もしさを感じました。
すでに震災6ヵ月後となる9月11日のイベントの準備まで視野に入っており、やはりトップの人間性、リーダーシップ、その影響度は計り知れないものがあるなぁ、と感じました。
<写真右下が若女将Sさん>
次に訪れたのが青根温泉とだ家さん。
最近、ひょんなつながりから若女将Sさんがメンバー入り。
そんなこともあり、お邪魔させていただきました。
社長であるご主人の口から、リアルな実情が次から次と語られました。それはまさに現場ならではの声。震災対応の難しさを浮き彫りにしてくれるお話でした。そして、二次避難の人たちに何とか不便をかけずにもてなしたい、というホスピタリティが伝わってきました。
基本的には一次避難所の人も二次避難所の人も、はやく自宅に帰って元の生活をしたい、というのが本音のようです。
お掃除志隊 in 石巻3
震災から2カ月以上、気温25℃ともなると、ヘドロの臭い、かなりキビシイものがあります。
この日のお掃除志隊は18名。
大街道南という海にほど近いところのお宅のお掃除に取り組みました。
庭や駐車場を埋め尽くしていた瓦礫、床下と庭にたっぷりと積み重なったヘドロ。
取って運んで取って運んで・・・。
やりがい180%。お住まいの老夫婦、とても喜んでくれました。
この日は次なる活動の準備のため、旧雄勝町を訪れました。
南三陸町同様、鉄筋以外の建物はすべて瓦礫と化してました。
もう唖然です。
下の写真は雄勝支所。
3階の窓の上の部分、色が2層に分かれているのがわかるでしょうか?
この境まで津波があがった、ということです。
屋上に避難した人は、どんどん上がってくる様子に、「もう駄目だ」と恐怖に怯えていたそうです。
結局その日は屋上で一夜を過ごしたのですが、あまりの寒さに、ご老人5名がそのまま亡くなってしまったという悲しいお話を伺いました。
お掃除志隊 in 石巻2
5月4日の石巻お掃除志隊。
さすがにGWとあって、あちらこちらでボランティアさんがいっぱいでした。大型バスからお揃いのジャンパーで登場し、意気揚々と現場へ。どんな現場なのかな?
私たちも東京からの応援組を含め、総勢30名で4か所に分かれて作業しました。
今回の割り当ては、閉所恐怖症の私にはかなりハードルの高い床下作業! わずか50cm角の入口を見た瞬間、正直のところ「ああこりゃ無理だ」と思いました。
<東京から応援に来てくれた女性も床下で大活躍>
しかしそうも言っておれず、意を決して中へ。入るまでは恐怖でしたが、入ってしまえばなんとかなるものです。
床下表面のヘドロをスコップですくっては土のう袋へ詰める(これがかなり重たい!)。その重たい袋を匍匐(ほふく)前進しながら入口のほうに持っていく、まずはその繰り返し。
狭い中でのハード作業で汗だくです。カッパは泥まみれ。マスクの息がメガネを曇らせるので、メガネは使えません。
5名同時にもぐってまずはヘドロ取りが完了。一旦外に出たときの空気がおいしかったこと!
休憩も束の間、高圧洗浄機で床板の裏側や基礎柱にへばりついたヘドロを落とします。これをしっかりやらないと臭いが残ってしまうのです。
私の役割は投光器を持って洗浄機を当てる場所を明るくすることでした。投光器が重たくて、これまた結構しんどい作業でした。
そして仕上げは消石灰を床下前面に撒く作業。もうこの段階になると何でもできるぞ、っていう気分です。
普通なら素人がやるような作業ではないのですが、この非常事態、そんなことを言ってたらいつまでたっても片付けは進みません。
何しろそこに住んでいる人は他にもやることが山ほどあるのです。多少なりとも精神的に余裕のある我々が動かないことには前へ向かう気持ちも盛り上がっていかないことでしょう。
そんな使命感を感じつつ、まだまだしばらくお掃除志隊は続けていきます!
東京からボランティア参加してくれた人たちの感想、
「やはり画面からは想像できないことがたくさんあった」
「機会を見つけてまた来たい」
「ぜひ感じたことを周りに伝えたい」
ハモコミ通信2011年5月号「忘れ得ぬ人」・「正論」
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コラムで見つけた ちょっといい話 その4
今回もある小冊子より、コラムをご紹介します。
■◇■ 忘れ得ぬ人 ■◇■
人には人生の中で大事な日が存在します。大切な人がなくなった日、つまり「命日」が挙げられるでしょう。
人がこの世から去った日は、その人に対する恩と感謝を有する人にとっては、忘れ得ぬ日です。忘れられない日がある限り、そこに忘れられない人が存在するといえます。
故人の供養として、仏教では祥月命日を設けています。月ごとに故人を偲ぶ機会が設けられているのです。それはあたかも忘れ得ぬ人と互いに語り合う場といってもいいかもしれません。
生前に様々な形で影響を受けた人には、逝去してなお教えを請うことができます。今は亡き方々の姿を自分の目の前に置き、自分自身を律する糧とすることができるのです。
大切な人の思いに応える一生を貫くためにも、「あの人が今の自分を見たらどう思うだろうか」と自問自答をしていきたいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
毎月決まった日に、原点に帰る、思いを新たにする、そんな日を作ることによって故人の思いがつながっていく。仏教の考え方、とてもしっくりきます。
■◇■ 正論 ■◇■
Y氏は路上喫煙禁止地区で喫煙している男性を目にしました。
人目を気にすることもなく、傍若無人にタバコを吸い続ける男性の態度に腹を立てたY氏。大きな声で「おいお前、タバコを消せよ!」と注意をしました。すると男性は不機嫌そうにタバコを投げ捨てたのです。
不快な思いを消せないY氏は、友人にその経緯を伝えました。すると友人からは「Y君の主張は正しいけれど、その言い方だと相手が気を悪くするのも分かるよ」という言葉が返ってきたのです。
友人の率直な意見に対してY氏は、注意した時の自分の言動と表情を思い起こしました。顔は強ばり、態度が高圧的になった自分に気づかされました。
自分は正しいことを言っているという思いから、〈相手を責める心が先行し、感情的になってしまった〉と、Y氏は反省しました。
「自分は正しい」は、時として「相手は間違っている」という責め心を呼びます。「正論」が相手を制する「制論」とならないよう、十分に留意したいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
責め心。イソップ物語「北風と太陽」の北風を思い起こします。
お掃除志隊 in 石巻・東松島
「 動けば何かが変わる 」
仙台ゾウ・プロジェクト有志でお掃除志隊を結成。被災したメンバーの家族・親戚宅を中心に、ヘドロに漬かった家財道具の運び出しや、床下にたまったヘドロの汲み出しなどを毎週末行っています。これまで6回実施のうち4回参加してきました。よろしければHPをご覧ください。
この中で感じたのは、つながりの大切さです。一人ではできないことも、仲間が集まれば何でもできそうな気になり、そして動けば何かが変わります。途方に暮れそうな状況も、魔法のようにキレイになっていきます。
徳島AWAおんなあきんど塾は、バザーで得た収益金で宮城県からモノを仕入れ、復興市を行ってくれるそうです。こういうのがこれからうれしい支援ですね。
お掃除志隊 in 東松島2
本日のお掃除志隊は東松島市牛網地区。
海まで200mくらいという激しいところ。
周囲の家のほとんどが全壊という中にあって、H邸はしっかりと生き延びていました。
新しく立派な造りであることの他に、幸運に助けられました。
正面から来た大津波に対して、側面からの波が手前でぶつかって、勢いが分散したらしいのです。
ここでのお掃除ボランティアは、ゾウプロとしては3日目。
さすがにずいぶんきれいになりました。
庭で楽しそうに遊んでいた3兄妹。
震災などどこへやら、まさに希望の星です。
特に末娘のAちゃん。何度も何度も「おんちゃん達、うちをきれいにしてくれてありがとう!」と可愛い声で言ってくれ、何だかとってもうれしくて、涙が出そうでした。