びわの葉を眺めながら
天保5年創業という千疋屋のロールケーキは、イチゴの時期が過ぎるとびわとなります。
今年もその上品な甘さを堪能させていただきました。
こちら仙台では、ちょうど今がびわの実の旬です。
弊社の入り口にもびわの木があり、実が鈴なりになっています。今年は豊作かな?
植物は、種の保存の法則から危機感を覚えると実をたくさんつける、と聞きました。
やはり震災の影響を感じとっているのかもしれませんね。
さて、びわと言えば、実もおいしいのですが、葉っぱもとても有用です。
びわの葉温灸とかびわの葉こんにゃく温湿布などの自然療法があり、末期がんを克服したという事例も報告されています。
実は私の大切な友人がびわの葉療法を続けていました。
2年半前にすい臓がんを宣告され、基本的に自らの自然治癒力をいかに高めるか、という方法で闘ってきたのです。
足湯がいいと聞けばそれを徹底的にやるし、いいと言われ自分が納得したものについては本当に真摯に取り組んできました。
20歳以上も年上の友人ですが、彼には「生き切る」ということ、大切なことを大切にする真の心、強くて謙虚で穏やかなリーダーシップなど、とても素敵な生き様を見せてもらいました。
そして本当に今でも心の中に生き続けています。
彼のためにかき集めたびわの葉は何枚だっただろう・・・。
うちの会社のだけでは足りず、あちこちから協力してもらい、梯子に登って摘ませていただきました。
今後もびわの木を見る度に、彼の前向きな考え方と実行力、温かい心などを思い出すことでしょう。
仮設の夏
前回、炊き出しや体操の時に顔馴染みになった人たちのお手伝いができるということで、
使命感と期待感に燃えて仙台から2時間かけてやってきました。
道中、牡鹿半島に入ると、時計がすっかり止まったままのようでした。
復旧の度合いが石巻市街地とは雲泥の差。しょうがないと言えばそれまでなのですが。
さて、避難所に着いてみると何やら様子が少し違ってました。
つい1か月前は120名くらいいた避難者が、なんと40人にまで減っていたのです。
顔馴染みになった人たちほとんどが巣立っていってしまったわけです。
ちょっと拍子抜けしましたが、それは復興の証。いいことなのです。
今回は13名。
女性隊は炊き出し中心、男性隊は被災家屋の片づけ中心、二手に分かれて活動しました。
すぐ目の前が港というところの店舗兼住宅2軒分のお手伝いをさせていただきました。
家主さんの指示に従って要るものを選り分け、仮設住宅に運びこむ、という作業でした。
鮎川地区は高台にまとまった空き地があまりないため、かなり小規模な仮設があちこちに点在。
写真のところは、小学校の校庭をつぶして作ったもので、同地区最大規模と思われます。
設備はそれなりに整ってますが、やはり仮設は仮設。夏をこの中で過ごすのは厳しそう。
実際の暑さももちろんなのですが、圧迫感からくる精神的な暑さとでもいうものでしょうか。
少し広い集会所のようなものがほしいな、と思いました。
贅沢と言われればそうかもしれませんが、狭い仮設だけでは息が詰まってしまいそう。
どこかの大学教授が、建物に沿ってウッドデッキをつくることを提案していました。
大賛成です。間違いなくいい役割を果たすことでしょう。
本来のコミュニティはバラバラにされてしまっても、隣近所を大切にする心は持ち合わせている人たちだからです。
長く住むことを前提としてない場所だけに、お金のかけ方が難しいのでしょうが、
暑さを乗り切るためには、「心がへばらない」のが一番だと感じました。
ハモコミ通信2011年7月号「リスクを避けるリスク」・「際ということ」
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震災で気になったこと その1
震災は数々の教訓や思いを与えてくれてました。いや、今も続いていますね。そんな中で私が気になっていることをいくつかご紹介させていただきたいと思います。
■◇■ リスクを避けるリスク ■◇■
「今回の地震と津波は想定外だった」
政治家も官僚も企業家も、一様にこの言葉を使い、マスコミはこぞって噛みつきました。「想定外とは何事か」と。ではマスコミはどの程度のことを想定していたのでしょうか?
そしてこれからの新しい枠組みづくりにあたって、「リスクを避ける」という言葉が頻出しています。もちろんとても大切なキーワードだと思うのですが、同時に「リスクを避けるリスク」も存在することを忘れてはならないと思うのです。あるいは「リスクを避けることによって失われる利益」ということを。
ある方から紹介された1冊の本。毎日新聞社編集委員の小島正美氏著「誤解だらけの危ない話」の中には、とても興味深い実例がたくさん掲載されています。
例えば保存料を使用してないおにぎりと使用しているおにぎりのどっちが安全か?という話だったり、遺伝子組み換えのトウモロコシと有機農業の虫食いトウモロコシとどっちが健康上の影響が大きいか?など、とても興味深いものがあります。
とても紹介しきれませんので、興味のある方は著書をお読みいただくのが一番ですが、弊社HPにその一部の抜粋を掲載しております(「壱岐産業」で検索)。この激動の社会、冷静に見極める目を持っていたいものだ、と強く感じています。
■◇■ 「際」ということ ■◇■
国際、とか瀬戸際など、際(きわ)という言葉がありますね。これはある線を境に、あちら側とこちら側を分ける、まさにその線を指しています。
震災直後から今に至るまで、電気・ガス・水道・警察・消防そして自衛隊・市民ボランティアなど、遠くの県または隣県から、実にたくさんの応援隊が駆けつけてくれました。アメリカ軍やフランスの放射線専門家も大活躍でした。県や国といった際を越えて。本当にうれしく頼もしく感じたことです。
さて、地球市民という言葉がありますね。みんな同じ地球に住むひとりの市民。お互いの間に際がないというのがその言葉の意味でしょう。自分はこの言葉に憧れを感じ、本当の意味でそうありたい、と思ってきました。
地球市民思想には名古屋市水道局だったり、滋賀県消防署だったり、そんな区別はないはずなのです。同じ地球の仲間だから。でも、実際はあちらは名古屋、こちらは仙台。あちらとこちらを強く意識しました。やっぱり際はある。自分はいったい何者か?ということを意識したのです。
際があまりに強すぎると、お互いの違いにばかり目が行ってしまい、比較によって優越感やら不満やらが増長され、争いの気持ちのタネが芽生えてしまいます。
地球に生きているという全体意識と、地域や団体の一員であるというコミュニティ帰属意識と、両方の程よいバランスというか、自由に行き来できる感性が大事なんだろうなぁ、と感じたしだいでした。
■◇■ ■◇■ ■◇■
震災復興のシンボル2
震災後しばらく、仙台の街の至る所、路上駐車があたり前のようでした。取り締まりも大目に見られていたようです。
ところがつい先日。お恥ずかしながら駐車違反のシールが貼られてしまいました。その時は、復興の証かな?な~んて余裕で受け止めたのでした。
反則金の支払いをするため銀行の窓口で順番を待っていた時、ふと嫌な予感がして窓の外を見てみると・・・。
なんと、月末で混んでいて駐車場に入れられず路駐していた私の車の後ろで、駐車監視員の方2名が時計を見ているではありませんか! OH!こりゃ洒落にもならん!と猛ダッシュ。おかげさまで間一髪ギリギリセーフでした。
嫌な予感が当たるっていうのも、復興の証でしょうか?
お掃除志隊 in 石巻4
男衆の体力限界ギリギリのハード作業でした。
20kg以上はあろうかというふたを持ち上げると、ハエがモワッと舞い上がります。
同時に鼻をつくものすごい臭い!
石巻大街道北地区は、床上およそ1mの浸水が2日半続いたところ。
油や薬品など、様々な異臭混じりの海だったそうです。
このあたりは家の中の掃除はほぼ終了しており、いよいよ側溝を掃除する段となり、応援を求められました。
町内会の人たちとの共同作業。
あまり若い人はいません。ほとんどが60歳台、70歳台の方々。
今回からマスクをDS1という検定付きのものに変えました。
それでもヘドロの臭いは27℃という気温に蒸し返され、マスクを抜けて住民の生活の大変さを思い知らせてくれます。
だからこそやりがいもあります。
若い力が必要とされています。まだまだ、まだまだ、ま~だまだ。
作業していてわかったのが、地震の影響で微妙な傾斜のズレが生じているということ。
本来スムーズに流れるはずのものも、沈殿したり逆流したりしてしまっています。
それだけに少しずつ土のう袋に詰めていくという地道な作業が続きました。
この土のう袋を押さえている人が、よりヘドロに近いので実は大変です。
さて、そんな地道な作業を朝9時から3時まで、いや~みんなよくがんばったなぁ!
これで少しは臭いの元が減ったんだなぁ、と。
それにしても石巻全体で側溝掃除にまで手が回っている所は少ないと思われます。
正常化するまで気の遠くなるような道のりが続いています。
一歩一歩やるべきことをやっていくしかないのです。
今回は、仙台出身で東京で映像作家として活躍中の中津川さんが「復興1号」に乗って応援に来てくれました(写真右端の人)。
http://nakatz.blog.so-net.ne.jp/2011-04-09
エコノミークラス症候群防止体操 そして炊き出しボラ
牡鹿半島の先端近いところに、かつて捕鯨基地として栄えた鮎川地区があります。
旧牡鹿町は今は石巻市に合併されていますが、石巻市中心部から小1時間かかるため、仙台からだと高速道路を乗り継いでも約2時間かかってしまいます。
その不便さから震災ボランティアが手薄の地区と聞き、我らゾウプロの出番だ、ということで日曜日に18名で行ってきました。
石巻市中心部は路上の震災ゴミの山がすっかり片づけられており、大きく前進していると感じました。ところが牧山トンネルを抜けて渡波地区に入ると光景が一変しました。
震災後1ヶ月目くらいの状態がそのままでした。
渡波地区は地盤の低下によって、満潮の度に海水が沁みあがってくることでニュースにとりあげられていましたが、まさにその現状を車窓から確認しました。
入り江毎に現れるはずの牡鹿半島の美しい漁村はことごとく壊滅状態。
そんな悲しい光景を見ながら大きな地割れと陥没道路をクネクネ行くと、やはりこちらもすっかり変わり果ててしまった鮎川に到着。
避難所となっている清優館デイサービスセンターが今回の活動場所。高台にあり海のほうが見えないため、のどか、という言葉がぴったりのところでした。
「この時間は20人くらいしかいないんですよ。日中は若い人たちはいろいろやることがあって、夕食に合わせて帰ってくるもんで」とセンターの方。
「十分ですよ。日中避難所に残っている人が一番心配なんです。外に出ている人はエコノミークラス症候群にはなりませんから。」と先生。
T先生、S先生、Y先生、3人のエコノミー症候群防止体操の先生の補助として、私たちがお年寄りと一緒に体操をしました。
さすが専門の先生だけあって、途中の解説がいちいち納得がいくし、わかりやすく雰囲気づくりも上手でした。まあ雰囲気づくりのお手伝いくらいはできたかも。
午前中は1時間弱この体操を行い、午後は2班に分かれ玄関のお掃除と花壇の草取りを行いました。18人の元気があっという間にキレイをつくりあげました。
そして炊き出し。
ごはん、みそ汁、つるむらさきのお浸し、ジャガイモのカレー炒めを夕食分として、ポテトサラダを翌日分として作りました。
配膳をしていて驚いたのは、おばあさんたちの食欲。なかなか旺盛でした。
「もうちょっとよそって」と言われてなんだか頼もしく感じました。
たったこれだけのお手伝い、半日だけの滞在だったのですが、帰るときほとんどみんなが見送りに出てくれました。
夕食の時間になると、若い人たちもみんな戻ってくるので活気が出てくるのです。
この記念撮影の周辺にも大勢の人たちがいたのです。シャイな人が多いので一緒には入らないのですが。
何だかとってもうれしくて、いっぱい手を振り、また必ず来ることを約束しました。今度はみんなに記念撮影に交ざってもらおう!
帰り道、同じはずの風景がまったく違って見えました。ああ、ここは、あの人たちが住んでいたところなんだ・・・。涙が熱くこみあげてきました。
スタッフルームを新設しました
当面は社長の投稿が多いかもしれませんが、少しずつ全社員が投稿しやすい環境を整えていきたいと思っています。
何しろ弊社のモットーは、ハーモニーのあるコミュニティづくりのお手伝い!
まずは足元からジワリジワリ進めていきますね。
仙台発・大人の情報誌 「りらく」 に掲載されました
仙台発・大人の情報誌「りらく」は、私がほぼ毎月読む唯一の雑誌。
単に美味しいものやホットな話題を伝えるのではなく、携わっている「人」にフォーカスすることを基本としている点が面白いのです。
5月号は震災のため休刊となり、その分6月号を震災復興特集号と位置付け、「復興応援企画 元気でやってます! 困難を乗り越えて 一歩、また一歩」という特集が組まれました。
弊社が取り扱っているWINPROが編集者の目にとまり、お声がけいただいた次第です。
電気のない暗い数日間を体験した人ならおわかりですが、どこかにちょっとでも明るいところがあるとホッとするものです。
WINPROは、風力と太陽光のハイブリッド型発電です。
外部電源に頼ることなく、照明灯を1年間絶やすことなく灯し続ける頼もしい存在です。今回のような大規模停電の時などは、日中は携帯充電ステーションとして周辺住民に便宜を図ってあげることも可能です。
詳細をお知りになりたい方はこちらまでご連絡くださいませ。
info@iki-sangyo.co.jp 担当:長谷川嘉宏
ハモコミ通信2011年6月号「仕事はじぶんでつくるもの」・「残されたソース」
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コラムで見つけたちょっといい話 その5
最近これにばかり頼ってしまっていますが(苦笑)、ある小冊子でみつけたいい話をご紹介したいと思います。
■◇■ 仕事は自分でつくるもの ■◇■
今年、楽天イーグルスのコーチに就任した田淵幸一氏。野球人として力を発揮できたのは、ある恩師の一言がきっかけだといいます。
幼い頃から引っ込み思案だった田淵氏に、野球の楽しさを教えてくれたのは、小学校の担任でした。野球の面白さに目覚め、その後法政大学に進学。念願の野球部に入部しましたが、新人は球拾いが日課でバットすら振れませんでした。
それに嫌気がさした時、氏は「自分のやるべきことは自分でつくる」との恩師の言葉を思い出しました。バッティングキャッチャーを買って出たり、率先して下働きに徹する努力をした結果、ポジションを確保できたのです。
「やらされている」という気持ちでは、自分の成長はいつまでたっても望めません。自ら積極的にやるべきことを見つけて果敢に取り組むことが、仕事で成果を出す方法の一つです。
「自分がやる」との気概を持ち、与えられた仕事以上の働きを常に心がけていきたいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
グルメ情報サイト(株)ぐるなびの滝久雄会長の若い頃からの信条は、「やらなければならないことは、やりたいことにしよう」だそうです。田淵氏の例とは少し意味合いは違いますが、いずれにしても前向きな姿勢で結果を残していきたいものですね。楽天ガンバレ!
■◇■ 残されたソース ■◇■
帝国ホテルの料理長を26年間努めた村上信夫氏は、厨房出身で重役になった唯一の人です。10代で厨房に入った3年間、氏の仕事は鍋磨きだけでした。
当時、氏と同じように何人もの少年が入って来ましたが、1年以内にはほとんどが辞めていきました。
その中で、氏は「日本一の鍋磨きになろう」と決意し、銅の鍋を自分の顔が映るくらいピカピカに磨き続けたのです。
やがてその働きぶりは、先輩たちの知るところとなりました。使用した鍋が返される時、普通はソースの味がわからないように洗剤が入れられてくるのですが、村上氏にだけは、ソースを残したまま返されてくるようになったそうです。
それは先輩たちの秘かな応援でした。村上氏はそれを舐めて隠し味を勉強し、一人前の料理人になることができたというのです。
頼まれごとは「試されごと」といいます。人からものを頼まれる際は、その受けっぷりから仕事ぶりまでが試されています。今置かれている状況を喜び、依頼された仕事を黙々とやり遂げましょう。人生を開く扉は目の前にあるのです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
日本一の鍋磨き、そう決意した瞬間から、気合いと共に新しい視点が加わったことでしょう。日本一だとすれば、この程度ではいけない、こんなことでへこたれている場合じゃない、もっと工夫はできないか・・・。
一次避難所 & 二次避難所
何もなくなってしまった、という筆頭は陸前高田市ではないかと思います。あそこの何も無さはハンパじゃない。
閖上は子どもの頃、父に連れられて、毎週のように魚釣りに行った思い出の地。仙台ゾウ・プロジェクトとしても、ここで開催された「8時間耐久ママチャリレース」に2年連続参加したという縁があります。港朝市が好きで、砂丘から眺める海も好きで、何度も足を運んでいました。
だからどこにどんな建物があって、と、町の様子はほとんどわかっていたのです。それだけに、「・・・」。
今回は、お掃除志隊のメンバー10名で、この閖上から仙台空港の脇を抜け、山元町の一次避難所、青根温泉の二次避難所において、現場の生の声を伺うツアーとしました。
これまで石巻方面ばかりだったので、県南の実情も見るべきだ、と思ったのです。
<写真中央がW先生>
山元町は死者行方不明者数が約750人。町民数16700人だったわけですから、かなり大きな影響と言えるでしょう。
メンバーの知り合いW校長先生が総監督をしている山下中学校を訪れました。
この気さくなW先生。ご自身も自宅を失った避難民なのですが、とにかく明るい!
避難所の自治運営をじょうずに主導し、6月中旬には避難所解散、という町の方針に沿ってやるべきことをすべてやっているのです。この人に任せておけばバッチリ、そんな頼もしさを感じました。
すでに震災6ヵ月後となる9月11日のイベントの準備まで視野に入っており、やはりトップの人間性、リーダーシップ、その影響度は計り知れないものがあるなぁ、と感じました。
<写真右下が若女将Sさん>
次に訪れたのが青根温泉とだ家さん。
最近、ひょんなつながりから若女将Sさんがメンバー入り。
そんなこともあり、お邪魔させていただきました。
社長であるご主人の口から、リアルな実情が次から次と語られました。それはまさに現場ならではの声。震災対応の難しさを浮き彫りにしてくれるお話でした。そして、二次避難の人たちに何とか不便をかけずにもてなしたい、というホスピタリティが伝わってきました。
基本的には一次避難所の人も二次避難所の人も、はやく自宅に帰って元の生活をしたい、というのが本音のようです。
お掃除志隊 in 石巻3
震災から2カ月以上、気温25℃ともなると、ヘドロの臭い、かなりキビシイものがあります。
この日のお掃除志隊は18名。
大街道南という海にほど近いところのお宅のお掃除に取り組みました。
庭や駐車場を埋め尽くしていた瓦礫、床下と庭にたっぷりと積み重なったヘドロ。
取って運んで取って運んで・・・。
やりがい180%。お住まいの老夫婦、とても喜んでくれました。
この日は次なる活動の準備のため、旧雄勝町を訪れました。
南三陸町同様、鉄筋以外の建物はすべて瓦礫と化してました。
もう唖然です。
下の写真は雄勝支所。
3階の窓の上の部分、色が2層に分かれているのがわかるでしょうか?
この境まで津波があがった、ということです。
屋上に避難した人は、どんどん上がってくる様子に、「もう駄目だ」と恐怖に怯えていたそうです。
結局その日は屋上で一夜を過ごしたのですが、あまりの寒さに、ご老人5名がそのまま亡くなってしまったという悲しいお話を伺いました。