生活に取り入れたり、仕事で生かすなどしていただけると本望です。
◎私は傍役 遠藤周作氏 日経新聞「こころ」より
芝居には傍役(わきやく)というものがある。
傍役は言うまでもなく、主役のそばにいて主役のためにいる役である。その務めは主役と共に芝居の運行をつくっていくのだが、また主役を補佐したり、主役をひきたてるためにもある。
「あたり前だ。わかりきったことを言うな」
とお?りにならないでいただきたい。
しかしなぜ私がこんなわかりきったことを書いたかというと、我々は我々自身の人生ではいつも主役のつもりでいるからだ。
たしかにどんな人だってその人の人生という舞台では主役である。そして自分の人生に登場する他人はみなそれぞれの場所で自分の人生の傍役のつもりでいる。
だが胸に手をあてて一寸、考えてみると自分の人生では主役の我々も他人の人生では傍役になっている。
たとえばあなたの細君の人生で、あなたは彼女の重要な傍役である。あなたの友人の人生にとって、あなたは決して主人公(ヒーロー)ではない。傍を務める存在なのだ。
「あたり前じゃないか。まだくだらんことを言うのか」
とまたお叱りを受けるかもしれない。
だが人間、悲しいもので、このあたり前のことをつい忘れがちなものだ。例えば我々は自分の女房の人生の中では、傍役である身分を忘れて、まるで主役づらをして振舞っていはしないか。
5、6年前、あまりに遅きに失したのではあるが、女房をみているうちに不意にこの事に気がつき、
「俺…お前の人生にとって傍役だったんだなァ」
と思わず素頓狂な声をあげた。
「何が、ですか」
女房は何もわからず、怪訝(けげん)な顔をした。
「いや、なんでもない」
気づいたことを言っては損すると思ったからそれ以上は黙った。
しかし私はまるでこれが世紀の大発見のような気がして日記にそっと書きつけておいたほどである。
以後、女房にムッとしたり腹が立つときがあっても
「この人のワキヤク、ワキヤク」
と呪文のように呟くようにしている。するとなんとなくその時の身の処しかたがきまるような気がする。
夜、ねむれぬ時死んだ友人たちの顔を思いだし、俺はあの男の人生で傍役だったんだな、と考え、いい傍役だったかどうかを考えたりする。もちろん、女房の人生の傍役としても良かったか、どうかをぼんやり思案もしてみる。
こんなことに気がついたり、考えたりするのは私が人生の秋にさしかかったためであろう。
最後に、この傍役の話は結婚式の披露宴のスピーチに役立ちますよ。お使いください。
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<コメント>
実は今回、ネタに困って、過去のハモコミ通信を読み返しました。すると、2004年11月号におあつらえ向きの素材が見つかりました!(笑)
17年前の自分はどんな思いでこのコラムと向き合ったのだろうか、と考えてみました。何しろ、「ハッとする文章を見つけたので掲載しました」とだけ書いてあったからです。
どんな思いで向き合ったかどうかは別として、自分の肥やしにはならなかったことは間違いありません。
何しろ、改めてハッとしたからです。表面的に読んだだけだったのでしょう。
具体的な人の顔を思い浮かべながら、黙想する時間を取ってはじめて、このコラムがふたたび息を吹き返すのでしょう。最低でも30分は時間を取りたいものです。
家族、友人、職場の同僚、当てはめていくと面白いです。脇役であることは間違いない。良い脇役なのか、そうでもないのか、そこが重要。良いにも段階が無数にありますしね。
5年後くらいにまた読み返してみたいものです(笑)。