ハモコミ通信2011年2月号「例話の達人二宮尊徳」・「私はだれ…」

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■◇■ 例話の達人二宮尊徳 ■◇■

 あっという間に1ヶ月が過ぎました。この分だとあっという間に1年が過ぎちゃいそう(笑)。

 さて、二宮尊徳(本名金次郎)と言えば、学校の銅像でイメージされている方が多いのではないかと思います。

 背中に薪を背負いながら書を読んでいる少年像、ですよね。でも実は183cm、90kgいかつい顔の大男だったそうですよ! 意外ですね。

 幕末のころ、六百十余の藩や郡村の財政危機を立て直し、大飢饉から多くの人々を救い、一農民の出身でありながら、ついには幕臣となって活躍したという尊徳。再建の神様という異名は伊達じゃありません。

 彼は農業だけじゃなく、身につけた学問を門人に伝えているのですが、その際、様々な例話を使うのです。それが本当に巧みなのに驚かされます。

 有名なのは「たらいの水の話」でしょうか。

「欲を起こして水を自分の方にかきよせると、向こうに逃げる。人のためにと向こうに押しやれば、わが方にかえる。人の幸せも、物質も、お金もみんな同じだ。」 という話。

 この話を聞くとやはり禁欲主義か、と思われるかもしれませんが、実は真逆です。

 大自然から実地につかみとった彼の思想は、人間の欲を認め、まわりと調和させながら、心も金も、同時に、豊かにする「実学」だったのです。

 そのキーワードは「至誠」と「行動」。十分現代に通じることなのです。

 尊徳の思想は、渋沢栄一、豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫といった名だたる大実業家に大きな影響を与えたと言われています。

 さて例話に戻します。

 人の道というのを「水車」に例えた話にもとても感心しました。

「その形の半分は水流に従い、半分は水流に逆らって輪が廻る。全体が水中に入れば廻らないで流される。また水を離れれば廻るはずがない。それゆえ人の道は中庸を尊ぶのである。

 人の道もそのように天理に従って種を蒔き、天理に逆らって草を取り、欲に従って家業に励み、欲を制して義務を思うべきである。」

 最後にもう一つご紹介しましょう。風呂水の哲学、として知られているものです。

「世の中には、お前たちのような富者でありながら、みな満足することを知らずに、不足を言い立てるのは、大人がこの湯船の中に立って、かがまないで、湯を肩にかけて、『湯船がはなはだ浅い。膝まで達しない』と罵るようなものだ。もし湯をその望みのように深くすれば、小人・童子は入浴できなくなるだろう。

 これは湯船が浅いのではなく、自分がかがまないのが過ちなのである。分限を守らなければ、千万石あっても不足である。」

 物事を本当によく理解した人は、伝え方も自ずと上手になるそうですね。今回の話がわかりにくいとすれば、私の理解力が不足している証です(笑)。

                         (BY 長谷川嘉宏)



■◇■  私はだれ・・・  ■◇■  

私はいつもあなたのそばにいる。
いちばん頼りになる助け手でもあれば、大変な厄介者でもある。
後押しもすれば、足を引っ張って、しくじらせもする。

私はあなたの命令次第。
半分だけやって任せてくれれば、残りは手早く正確に片づけてしまう。

私の扱いは簡単。念押しは不要。
何をしたいか見せてくれれば、少しの練習であとは自動的だ。

私はすべての偉大な人物のしもべ。
そして何たることか、すべてのしくじりの主人。

偉大な人が偉大になったのは私のため。
しくじった人がしくじったのも私のため。

私は機械ではないが、機械のような正確さと人の知性によって動く。
私を動かして利益を得ることもできれば、破壊を招くこともできる。

私にはそれは関係ない。
私を利用して訓練し、しっかり働かせなさい。

そうすればこの世を足元に従えることさえできる。
しかし、甘やかせばあなたを滅ぼす。

私はだれか。            私は習慣。


                         (作者不詳 )




■◇■  編集後記  ■◇■


尊徳の弟子福住正兄によって表された『二宮翁夜話』。
それを現代語訳し、さらに全編181話を厳選61話にまとめ、CD化したものが手元にございます。興味のある方はご一報くださいね。
 

2011.02.01:壱岐産業:[事務局ノート]