甲子(きのえね)の大黒さま
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長寿社会に思う(最終回)
長寿社会に思う①からご覧ください。
子供は両親がおじいちゃんやおばあちゃんに、どのように接するのかを見て育ちます。
いわば両親への接し方を、両親の後ろ姿から学んでいくのです。
両親と祖父母がバラバラに生活しているのを見れば、子供も両親と距離をとるようになります。両親が祖父母の悪口を言っていれば、子供も両親の悪口を言うようになります。両親が祖父母の介護をいい加減にすれば、子供も同じことをするものです。
この世は恐ろしいほど因果応報の世界なのです。
これからの時代は健康で長生きすることが、幸せだとは言い切れなくなるのかもしれません。それは健康で長生きすることばかりに捕らわれ、大切なことを忘れてしまっているからなのかもしれません。人間は必ず年をとり、病気にかかり死んでいきます。現代はある意味、無慈悲な医療によって病気にかかってから死ぬまでの期間がとても長いのです。
一人で生活することのできない状態になった時に、大切になるのは何でしょうか。
私は健康で長生きするよりも、病気になった時にあたたかく介護してくれる家族のほうがありがたいと思うのです。
ですから、自分の健康よりも家族を大切にしたいと思います。
現代は人との関わり方よりも、自分のことに関心が向かう傾向が強くなってきています。自分と相手を天秤にかけた時に、どうしても自分を優先してしまいます。それは家族に対してもそうなのかもしれません。
家族の枠をなるべく小さくして、責任を持たず干渉されずに生活したい
と思うのかもしれません。しかし、
それは自分を孤独にしているということでもあるのです。
私は家族こそが人間関係の基本だと思っていますし、家族の縁ほど強いものはないと思っています。その縁を放棄してしまって、いったい何が残るのでしようか。
同じ屋根の下に暮らしながらバラバラに生活していて、家族に何の意味があるのでしょうか。
これからの日本は家族の絆を見失ってしまったがために、
お年寄りが尊敬されない、惜しまれながら死んでいけない時代が来るのかもしれません。
しかし、
忘れていけないのは、誰もがお年寄りになるということなのです。
自分が年をとった時に家族にどのように接してもらいたいのか、そのためには今何をしなければならないのかを考えなければなりませんね。
お年寄りが安心して暮らせる日本であってほしいと願います。
...もっと詳しく
2006.11.26:
hs-1119
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長寿社会に思う(連載⑤)
]
長寿社会に思う③
人生最良の時期が過ぎてしまえば、どうなってしまうのか考えただけでも怖くなってしまいます。以前のブログにも書きましたが、人間が幸せを感じられる三つの条件があります。一つには、
自分の役割を持つこと
だそうです。しかし、年々体が衰えていけば役割など持てなくなってあたりまえです。二つには、
なごみの場所を持つこと
、会話が必要なのだそうです。しかし、生活の時間帯が異なってきますし、世代間のギャップは広がるばかりです。耳も遠くなりますし、声もかすれてきます。そもそも会話自体が難しくなってきてしまいます。三つには
自分の人生を認めてもらうこと
、「頑張ってもらってありがとう」という感謝が必要なのだそうです。たとえ体が不自由になり、会話が難しくなっても、家族のあたたかみは感じることができます。しかし、
老後をあたたかく過ごすための家族の絆が弱くなっている
ように感じてしまいます。
普段の生活でも、
お互い気を使うくらいならばバラバラに生活したほうがいい思うのかもしれません。
みんなで生活するよりも少人数で暮らしたほうが楽だと考える時代です。また、仕事での転勤や単身赴任が家族みんなでの生活を難しくしています。ですから核家族が増え、実家に帰るのはお盆とお正月だけという家族も多いのではないでしょうか。たとえ一緒に暮らしていても食事もバラバラという家族も多いのかもしれません。お互いに気を使うくらいならばと、
同じ家にいながらバラバラの生活をしていれば、家族の絆が深まることはありません。
よく「
家族に迷惑をかけたくないから健康でいたい
」と聞きます。しかし、
一生健康でいることなどできません。
病気にもかかりますし、怪我をすることもあるでしょう。寝たきりになることも十分に考えられます。人間にとって老・病・死は避けられないのですから。しかし、それよりも「家族に迷惑をかけたくない」という言葉に悲しい響きを感じてしまいます。それだけ家族の溝が深まっているということなのでしょうか。テレビでは頻繁に保険のコマーシャルが流されています。お年寄り向けの保険が人気なようです。
なんだか最後まで一人で生きなければならない世の中を象徴しているかのようです。
そもそも、
人に迷惑をかけないで生きることなどできません。
親しければ親しいほど、家族ならなおさら迷惑をかけるものです。しかし、それはお互い様だと思うのです。子供の頃さんざん迷惑をかけたからこそ、せめて老後に恩返しをと考えることによって、世の中はうまく回っていました。しかし、これからは育ててもらっても老後の世話はしないという世の中になっていくのかもしれません。
老後のお金や健康の心配をするのは、それだけ家族に頼れない、頼ってはいけないと考えるからなのかもしれません。
もしかしたら老後を一人で過ごさなければならないという不安が心の底にあるのかもしれません。
子供は両親が・・・続きは明日掲載します。
写真日記
落ち葉が風に飛ばされ宙を舞っている写真です。最近は毎日のように落ち葉を掃いています。掃いても掃いても次々に溜まっていってしまう落ち葉です。しかし、いつかは私もこの落ち葉のように散っていくのだろうとなんだか悲しくなりました。
2006.11.25:
hs-1119
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長寿社会に思う(連載⑤)
]
長寿社会に思う②
これからのお話しは、
介護をする立場の私たちが自分が介護を受ける立場になったときに経験するかもしれないことです。
普段なかなかお年寄りの立場になることができませんから、あえて掲載させてもらいます。
かわいい孫も大きくなり手がかからなくなりました。最近は小遣いでもあげなければ話しもしてくれません。早寝早起きになり家族との時間も合わなくなります。家族はあわただしく仕事や学校に行き、帰ってくる頃には食事が終わりお風呂に入り、眠る時間です。徐々に家族と会話をする時間がなくなっていき、自分だけが離れていくような寂しさを感じてしまいます。最近のことはすぐに忘れてしまうので、なつかしい思い出話をしたいのですが、子供も孫も飽きたとばかりに嫌な顔をされてしまいます。少し前ならご近所の同世代とお茶を飲み昼間の時間が過ぎていきましたが、最近は外に出るのもおっくうです。日中は一人で家にいることが多くなってきました。テレビを見ているか昼寝をしているかの生活です。朝早く起きても家族はみんな眠っています。静かな朝の時間のですが、寂しさが込み上げてきます。家族の中で生活しているのに孤独を感じてしまいます。自分が家族に迷惑をかけているのではないかという罪悪感もあります。しかし、まだ83歳です。週に一度は病院に通いますが、まだまだ長生きしそうです。
さらに数年が経ち、体も思うように動かなくなりました。生まれ育った家は取り壊され、孫の建てた家に住んでいます。最近やっと、この家にも慣れてきたところです。しかし、家族は私が施設にはいることを望んでいるようです。できるならば、許されたわずかばかりの余生を家族と共に過ごしたいと思うのですが、きっと家族の迷惑となることでしょう。家族は毎日忙しく働いているのですから。この年で新しい環境に馴染む自信はないのですが、施設に入るという悲しい決断をしました。もともと、家にいても寂しい思いをしていました。そんなことなら同世代の仲間のもとに行ったほうがいいと自分に言い聞かせたのです。家族は毎週面会に来るからと言ってくれます。その言葉にすがりたいと思います。施設の見学に行けば「家よりよっぽどいいよ、おじいちゃんがうらやましい」とまくしたてます。込み上げてくる悲しさを押し込め「ここならいいかもしれない」と気を使って言ってしまいました。施設に入れば知らない人ばかり、グループもあればイジメもあります。最初のうちは頻繁に来てくれた家族も月に1回30分だけです。施設では訪ねてくる人の数が噂されます。「もっと来て欲しい」でもそんなことは言えないまま「俺も楽しくやっているから大丈夫だよ」と言って毎回家族を送り出します。まわりの人間の失笑が聞こえてきそうです。
施設に入り半年後、手術を受けることになりました。やっとお迎えが来たという安堵感と手術に対する恐怖感が半々といったところでしょうか。久しぶりに家族みんなの顔を見ました。みんな心配そうな顔をして励ましてくれます。4時間にも及ぶ手術は大成功でした。麻酔から覚めてみると長男夫婦がいてくれました。「おじいちゃん、手術は大成功だってよかったね」と笑顔です。もう少し生きられるという喜びが湧いてきます。しかし、長男夫婦は「あとは看護師さんにお願いしてるから」と言って、さっさと帰ってしまいました。病院から施設に戻る日、たまたま仕事の休みだった次男のお嫁さんが来てくれました。「みんなは」と声をかけると「みんな忙しくて」という返事です。「みんな大変だね」と言うしかありません。自宅ではなく施設に帰り、眠れない布団の中で「今まで何のために頑張ってきたんだ」という自分への問いかけに涙が止まらなくなりました。それでも、まだ数年は生きなければなりません。一週間後、施設から家族に、おじいちゃんに痴呆症の症状が出たので、施設を移ってもらいたいとの連絡が入りました。
人生最良の時期が過ぎてしまえば・・・続きは明日掲載します。
本日の写真
朝、向かいの山を見たら光の筋が帯状になっていました。とてもきれいだったので掲載します。
2006.11.24:
hs-1119
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長寿社会に思う(連載⑤)
]
長寿社会に思う①
老後の目標といえば、
健康で長生きして、ボケないでポックリ逝きたいと誰もが願います
。今日明日の心配ではなく老後の心配ができるのは、それだけ
豊かで安定した生活をしているということ
なのかもしれません。日本人は健康に対して非常に関心が高いようです。健康番組はたくさんあり、テレビで取りあげられた健康食材は品切れの状態になることもあります。健康食品の通信販売のコマーシャルもたくさんあります。
健康維持のために、お金と労力を惜しまない世の中になってきています。
それは健康で長生きしたいという願いのためなのかもしれません。しかし、人間は生まれた瞬間から、死へと向かい歩んでいきます。もし、200年も300年も生きなければならないとしたら、それは不幸なことなのではないでしょうか。しかし、
それでも死とは無縁でいたいと思ってしまうのが人間です。
仏教では
人間の根源的な苦しみは四苦(生・老・病・死)
であると教えています。年々衰えていくことを実感させられ、あちらこちら痛いところが出てきて、病気にもなりやすくなります。病院などほとんど通ったことがなかったのに、徐々に通院の回数が増えていきます。病気になれば、通院も大変ですし検査も嫌なものです。たくさんの薬を飲み、一つ治れば、またどこが痛くなるということの繰り返しです。
この世に生を受け、年をとり、病気になり、死んでいく
、というサイクルは現代の医学でも克服することのできない人間のさだめなのです。それでも平均寿命80歳の長寿国に生きる私たには死ぬまでにたくさんの時間があります。人生50年といわれていた時代から比べれば30年もの猶予期間があるのです。昔は還暦ともなれば、よくぞ生きてくれましたと讃えられました。還暦は男女ともに最後の厄年です。昔は役年と書いて、長年の経験を生かして村の長老に加わる年でした。しかし、今は誰でもほとんど還暦を迎えることができます。あたりまえのことですから、あまりお祝いという雰囲気でもありません。
年寄り扱いするなと怒られるくらい、今の還暦の人は若くて元気です。
還暦といっても、退職の頃合いと同級会の機会という意識になっているのかもしれません。
還暦から10年くらいは人生でもっとも楽しい時期です。
かわいい孫の世話をし、友達との旅行を楽しみ、新しい習い事でも始めてみる。
お金と時間と体力がバランスよく揃う数少ない時期なのです。
ですから、老後をいきいきと楽しむためにも、みなさん健康に気を使います。ところが、人生最良の時期を過ぎてしまえば、どうなってしまうのでしょうか。
これからのお話しは・・・続きは明日掲載します。
2006.11.23:
hs-1119
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長寿社会に思う(連載⑤)
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