甲子の大黒さま
▼善と偽善の狭間で
善とは何か考えてみました。世界中の宗教や哲学をひもとけば、たくさんの善が説かれています。しかし、人間は善を語ることはできても、それを体現するのはとても難しいものです。たくさんのしがらみに縛られる人間の行動には純粋な善も悪もないと思うのです。
善を為す裏側には様々な思惑や打算が潜むこともあります。まわりの人間は、そんな裏に潜む我欲を見抜くと偽善者だと非難します。しかし、無償の善を人間に求めること自体に無理があるのではないでしょうか。自分の命をなげうって、私財をなげうって、家族を犠牲にしてまでの善を求めるのは酷なことです。善のハードルをあげれば善人など誰もいなくなってしまいます。
誰かが見ているからゴミを捨てない、子供を乗せているから法定速度で走るなど、一人ではできないから誰かに頼り善を為すのも立派なことだと思うのです。節税のために慈善団体を作る人もいれば、自分のためにボランティアをする人もいることでしょう。しかし、それが社会に貢献するものであれば、それもまたすばらしい善行だと思うのです。反対に偽善とは誰かを偽善者と非難し正義の鉄槌を下し裁こうとすることだと思うのです。また、自分を善良な人間だと思い込み、自分の善を押しつけることも偽善になるのかもしれませんね。
善と悪が混在する世界に住むがゆえに、人間の心もまた善悪で混沌としています。私は不安定な世界で安定した足場を求めようとするとき、人は善を求めるのだと思うのです。いかなる形であれ善を求める行為が人間の本質だと思うのです。その本質に迫ろうとするとき、人は本当の自分を発見し安らぎを得るのではないでしょうか。この世にはたくさんの娯楽があり快楽があります。時間をつぶすのにも苦労しない時代です。しかし、同時にこの世界は満たされることのない砂漠でもあるのです。終わりなき砂漠の旅に疲れたならば、善という名の清らかなオアシスを求めることも必要なのかもしれませんね。
今日の目標
自分なりの善を実践しましょう
今日の写真
みなさんお久しぶりです。やっとあたたかくなってきましたね。今日の写真はわずかに残る雪が日の光を浴び輝いているところです。ニュースでは桜の開花予想が取りあげられていますが、小野川温泉に桜が咲くのはまだまだ先になりそうです。
画像 (小 中 大)
2007.03.23:hs-1119
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