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中学2年生のとき、同級生の女生徒に『クオレ』という小説の本を貸したことがあった。本は1週間ほどして帰ってきた。
1ヶ月くらいたってから、自宅でその本をめくって見ていると、頁のあいだに、四葉のクローバーの押花が挿まれているのをみつけた。
それから、だらだらした困惑が始まった。
何か意味があるのだろうかといぶかしんで、押花が挿まれていた頁を、何度か読み返してみた。
その頁には、不仲になっていた友達同士が和解して、友情を復活させる感動的な場面が書かれていた。
考えてみたが、自分にとっての意味はくみ取れなかった。
けれど、何も意味がないということも飲み込めず、困惑はつづいた。
気がつくと私は、教室の左斜め前の席にいるその女生徒の横顔を、よく眺めているようになっていた。

昨年、暮れに図書館へ行ったとき、ふとそのことを思い出して、『クオレ』の押花が挿まれていたと思われる箇所を捜して、読んでみた。草の栞の意味は何だったのか、産まれた赤ん坊が、自分の子供さえ生すほどの時間がたってからの、検証である。

俗な言い方だが、歳はとってみるものである。
その数頁をよく読んでみると、友達同士の和解と友情の復活は、それに先立ってお互いのこころを告白し合うことで築かれていた。友情でも和解でも復活でもなく、『こころを告白し合う』ということがキーワードだったのかもしれない、とすぐ思い当たった。さすがに人生の出発点で、『よくわかる現国』を人より多く、二年も読んで来ただけのことはあった。

過ぎた日の思い出は  みんな君にあげる  ゆうべ枯れてた花が  いまは咲いているよ

自転車にのって口ずさみながら、図書館から帰った。信号待ちの交差点で、サイクリングの集団に深大寺への行き方を訊かれた。妙に心身を軽く感じていたおじさんは、ついでに、盛りの好い蕎麦屋の講釈までしてしまった

2006.01.05:higetono:count(1,023):[メモ/やれやれ]
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