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▼同行者のいる人生
M市M町に住んでいたとき、通勤電車の駅に行く道すがら、一軒の家の門標に『阿部定』という名前を見ておどろいたことがあった。
あの有名な事件の本人なのだろうかと、通る度にひそかに観察してみたが、それらしき老女をみることはなかった。夏の季節などに、もう定年をすぎたらしい男性がステテコ姿で、その家の前の道をよく掃き掃除していた。何度か見かけて、このひとがこの家の当主で、門標の名前は『定=さだし』とでも読むのだろうと想像し、しかし、あれ程の有名人とも同姓同名のひとはいるのだな、と感じ入った。
わたしの会社の取引先に、『阿部定』と音のよく似た阿部只という会社があった。あるとき倉庫の出荷業務の人間が、運送便の送り状の宛名書きに、『阿部定』と書いて出荷をしてしまったことがあった。繁忙期の忙しさの中で、意識下にあった名前が不意と出てしまったもので、悪気があってのことではなかった。
しかし、宛名書きを間違われた相手の反応はすさまじく、すぐ電話で怒鳴り込んできた。激高した声は「ふざけるにもほどがある。あんなチンポ切り変態女とうちの会社をいっしょにするんじゃない。おい、責任者を出せ。」と言い出して、なかなか収まらなかった。名前を間違えること自体失礼なのだが、間違って書いた名前があまりに有名なものだったので、弁解をすることも難しく、閉口した。
宛名書きをまちがえた作業員は、年齢も若く、自分の身の上に関わらない、戦前の事件などに特に関心をもつ者ではなかったから、『阿部定』という名前は、一般的な日本人の記憶として、ある根強い喚起力を持っているのだなと思ったものだった。
『阿部定』という名前は、友人や大人たちの噂話を仄聞するというかたちで、わたしも中学生のころから、事件の凡その経緯と一緒に知っていた。それを鮮明な像にしたのは、20代の終わりに観た大島渚監督の『愛のコリーダ』という映画だった。この映画はカンヌ映画祭を騒がしたと評判だった。その映画についての出版物が、猥褻罪の容疑で裁判になったりもした。映画で主演した、松田瑛子という女優の野生的な容姿は、その後数年、他の映画のポスターなどでもよく見かけたが、そのうち見なくなった。『阿部定』という名前も『愛のコリーダ』の印象も自然に薄れて行った。そして30代も半ばになったわたしは、大体自分は大島渚の映画を好きではなかったし、愉しんで観ていなかったことにも気付いた。
その後『阿部定』について知識を得たのは、Adslというパソコン通信の方法が出来て、Webでの回遊が楽になってから、『無限回廊』というサイトに行き会って得たものと、またそこからさらに回遊して読んだ『阿部定事件 予審調書』からのものがほとんど全てである。『無限回廊』というホームページは、近現代の日本におきた犯罪事件を簡潔な記述で収集しているサイトで、今も更新が続いている。
『阿部定事件 予審調書』では、下町の不良少女が、家を出て身を持ち崩し、事件にいたるまでの経過を編年体で通読することが出来る。予審調書に書かれている経過の流れがあまりにも自然で、どこから犯罪事件に踏み越えたのか、見落としてしまいそうになる。その印象を造っているのは、『阿部定』がいつも男女のなかの問題を、身の振り方の転機にしていること。男女のなかの問題が、「男女、7歳にして席を同じゅうせず」という旧倫理に対抗する、「恋愛」という新倫理ではなく、色恋沙汰という、庶民の欲望に流れる不良性に一貫していることにあるように思える。
『無限回廊』では、事件=『愛のコリーダ』が終わったところからの文章に、そうだったのかと認識を新たにすることを読んだ。ひとつは、2.26事件の勃発があった昭和11年という世相のなかで、『阿部定』が事件後、大変な人気者になったという報告である。例として1部の新聞などで「世直し大明神」とまでよばれたこと、また獄中の『阿部定』に、400通以上の結婚申し込みが来たこと、などが書かれている。もうひとつは太平洋戦争敗戦後、『阿部定』が劇団に所属し、自ら『阿部定』劇のヒロインを演じて全国を巡業した、という報告だ。それは生業のためだったといえば、理解はできるものの、やはり自分で自分の事件を演じて巡業するということには、何か尋常でないものを感じた。
その後わたしは、同じ市内ながらM町からS町にマンションを買って引っ越し、通勤電車の駅に通う道も変わった。そして『阿部定』さんの家の前を通ることも永いあいだなかった。
何年か経ってから、友人にテニスに誘われて、コートへ行く道筋としてその道を通った。
阿部という姓は同じだが、名前がちがって門標は変わっていた。板塀にそって並べられていた、たくさんの鉢植えの朝顔なども見当たらず、家の主の代わった気配があった。あのステテコ姿で掃き掃除をしていた『阿部定』さんは、もう亡くなったのかもしれないと思った。
わたしは自分自身の名前としっくりしたことがない。周りのひとに訊いてみると、そういう気分をもっている人達はけっこう多いようなのだ。ただわたし達は、江藤淳が『昭和の文人』で論じているように「任意の親の任意の子」であることは出来ない。だから、初めは苦く感じたお茶の味にも慣れて行くように、名前との齟齬をも親しんだ風味として生きて行く。
だが、自分の姓名を言うたびに『阿部定』が脇に立ち、つねに同行者のいる『阿部定』さんの人生は、ある苦節であったろうと思う。そして『阿部』も『定』も、姓と名としては珍しいものではないから、事件前に産まれて、同姓同名となったひと達は案外多かったのではないか。
「大日本帝国」と国号が統一された年に起きた『阿部定』事件から、もう70年経っている。
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2006.07.31:higetono
[2007.03.27]
(皐)
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