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▼捨てられた本

三島由紀夫の小説『豊饒の海』第1巻『春の雪』は、華族の男女の悲恋物語である。最近映画化されたようだが私はこれを観ていない。たぶんテレビででも放映されない限り、観ないだろうと思う。
この悲恋物語は主人公の松枝清顕が恋死し、綾倉聡子が仏門に入って閉じるのだが、第4巻『天人五衰』の終局に、後日談がある。
老齢の尼僧となった聡子が登場し、舞台回し役である本多から、清顕との恋物語の顚末を問われる。世俗からだけではなく、記憶からも離れてしまったらしい聡子は、清顕をまったく知らないと言う。
「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」
清顕が存在しないなら、聡子も自分も現実も、何も無いことになるという本多に対して、聡子はさらにこう言う。「それも、心々ですさかい」

心々の出来事を、近くでも見たことがあった。

友人Sの事務所の引越しを手伝いに行ったときのことだった。
もうすぐ年末になる頃の引越しで、税理士をしているSは、まだ机の中の整理をしていた。こんな時期に引越しなどするべきじゃないのだが、賃借の期限の区切りがどうしようもなくて・・・・と、いい訳をしながら引き出しをかき回している。Sは一冊の画集をとりだして、不思議そうにながめていた。「どうしてこんなものがしまって在ったのかな?」と独り言を呟いて首を傾げている。のんびりしていたら終わらないぞ、と私が苦言を呈すると、その画集は捨てる物の山の上に、無造作に放られた。

緊急電話が入って、Sは顧客の要件で30分ほど外出することになった。指揮官のいない現場は休息の時間になって、私は先刻Sが捨てた白い表紙の画集を手にとってみた。『ロバート・ライマン 至福の絵画』、帯には『白のうえの白が詩をつむぎだす画家』と書かれていた。最後の頁を開いてみると、さっぽろあかしや美術館から、5年前に出された画集であることが分かった。頁をめくってもめくっても、白い絵の写真があった。冬の日の札幌で、この真っ白な絵の展覧を観るのはどんな気持ちだろう、と思ったとき、画集がそこにあった来歴が思い浮かんだ。

5年前、Sは深刻な家庭争議をくぐり抜けたことがあった。
発端は、いるはずのない千歳空港でSが若い女性と連れ立っているところを、知人に目撃されたことだった。それが妻女に伝わり、家庭の空気が不穏なものになって、思春期の子供たち2人も知るところとなった。私にはありふれた浮気騒動としか見えなかったが、子供たちも含めた、当事者たちの焦燥は激しかった。逢うたびにSの人相が変わっていた。青山1丁目のレストランに私を呼びだして相談を懸けてきたSは、「オレの場合はマルゴーじゃなくてバローロで乾杯かな」と、心中に至る不倫小説を暗示して、力なくわらったりしたこともあった。薄氷のうえをわたるような時間はどのくらいだったろう、2ヶ月くらいだったろうか。その年が明けて、Sの相手の女性が失跡して終わった。

『ロバート・ライマン 至福の絵画』は、Sが5年前の札幌への旅で持ち帰って、机の奥に隠されて来たのかも知れない。札幌でこれらの白い絵を若い女性と連れだって観ていたSは、新しい生活を始める清新な感動にうたれていたのだろうか。そして、女性が失跡してからのSは、毎日心のある部分を塗りつぶして過ごし、もう思い出もない真っ白を固形させたのだろうか。同じ白とはいっても頁を繰るたびに変化する質感の絵も、それを遠く隔てて忘れてしまった心々も、私にはよくわからず、おもえば茫々と風が吹いているようだった。

Sが仕事から戻って騒々しさが再開した。私は捨てる物の山を抱えて外に運んだ。

捨てられている本の風情はとても寂しい。古びて頁のめくれた文庫本も写真の多い豪華本も、それぞれの姿態でうち伏している。


*ロバート・ライマンは実在の画家だが、さっぽろあかしや美術館は存在せず、したがって画集もそこからは出版されていない。

画像 ( )
2005.11.29:higetono

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