羽田設計事務所

HaDA Sekkei
羽田設計事務所

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2000 K邸
2000 労働金庫酒田支店
2000 ケアハウスふるさと(仮称)
2000 蔵王ドライブイン改修(レストラン横倉)
2000 南陽市立病院改修
2000 N邸
1999 特別養護老人ホーム 太陽の里ふたば
1999 山形トヨタ自動車板金工場
1999 ディサービスセンターE型蔵王やすらぎの里増築
1999 レジデンスTOMOあこや町
1999 山形第一信用組合米沢北支店改装
1999 高畠町営体育館玄関ホール改修(増築)
1998 山形いすゞ新庄営業所
1998 A邸
1998 軽費老人ホーム 蔵王やすらぎの里談話室増築
1998 トレンド七日町
1998 特別養護老人ホームはとみね荘
1998 七日町こまくさ園
1998 夢工房
1998 鶴岡勤労者総合スポーツ施設
1998 楯岡駅
1998 アムテック
1998 大蔵村立赤松小学校改築
1998 山形酸素新庄営業所
1998 特別養護老人ホーム長寿園増改築
1998 てんどう駅西クリニック増築及改修
1998 旧山形県研修センター内部改修
1998 緑町ワンルームマンション
1997 特別養護老人ホーム中山ひまわり荘
1997 池田機械工業
1997 滝山小学校
1997 真室川町梅里苑増改築
1997 至誠堂総合病院病棟部改修
1997 山形県立ゆきわり養護学校校舎・寄宿舎増築
1997 山形いすゞ東根出張所
1997 高畠町教育事務室改造
1997 遠藤建設社屋
1997 N医院 N邸
1997 もんま医院増築
1997 たつのこ保育園
1997 コーポかじょう
1997 アムゼ株式会社
1996 旅籠町マンション
1996 豊田地区公民館
1996 特別養護老人ホームとかみ共生苑新築
1996 長井勤労者総合スポーツ施設
1996 Oアパート O邸
1996 山野辺町民プール
1996 山形県立鶴岡中央高等学校
1996 山形トヨタ大野目マイカーセンター  
1996 山形トヨタ自動車酒田営業所改築
1996 最上町老人保健施設及医学リハビリテーション
1996 高畠町立亀岡小学校屋内運動場等改修
1996 ヨークベニマル寒河江店
1996 セミコンダクターズニイノ増築
1996 さくらんぼテレビジョン演奏所
1996 イフコレンタカー山形営業所
1996 あとりえ瑠衣都
1995 日米商事東根温泉町給油所
1995 長清水団地8.9号棟
1995 総合療育訓練センター調理員室改修
1995 川越病院改造
1995 西村歯科増築
1995 真室川町立小又小学校屋内運動場改築
1995 篠原心療内科クリニック
1995 至誠堂総合病院増改築
1995 山形第一信用組合糖野目支店増築
1995 山形市立病院済生館シンボルタワー
1995 山形交通七日町バス待合所
1995 高畠町立糖野目小学校屋内運動場改築
1995 寒河江市総合福祉保健センター
1995 株式会社新和調査設計事務所山形支店
1995 駅西クリニック
1995 ミートショップ横山
1995 サンエー技研工場増築
1994 至誠堂総合病院改修
1994 山形第一信用組合 米沢支店
1994 山形いすゞ自動車 山形営業所
1994 戸沢村野口温泉源泉整備
1994 県営長清水団地
1994 ヨークベニマル西那須野店
1993 日米商事 鶴岡給油所
1993 日米商事 楯山事務所
1993 真室川町立真室川小学校校舎
1993 真室川町立真室川小学校屋内運動場
1993 山形第一信用組合 宮内支店
1993 山形県立産業短期大学校学生会館
1993 山形トヨタ 天童営業所
1993 最上町立最上病院改築・健康管理センター
1993 戸沢村立神田保育所
1993 戸沢村いきいきぽんぽ館
1993 H邸
1992 尾花沢市立宮沢中学校校舎
1992 尾花沢市立宮沢中学校屋内運動
1992 蔵王やすらぎの里 特別養護老人ホーム
1992 真室川町立釜渕小学校屋内運動場
1992 山形県立畜産試験場
1992 ヨークベニマル新庄店
1991 日米商事 新庄中央給油所
1991 山形日立米沢営業所
1991 最上町庁舎 増築
1991 角川保育所・本郷児童館併設
1991 屋代小学校
1991 ローズボウル改装



私たちの師である羽田他所夫は金沢の生まれであったが、戦後山形の地に腰を据え、建築の作品にとどまらず、さまざまな分野で近代化を推し進めた生粋のモダニストであった。羽田が生を享けたのは1917年、ロシア革命の年である。その頃の日本は大正デモクラシーや世界恐慌、軍国主義の嵐が吹き荒れ、建築のモダニズム運動の影響とともに、青年期の思想形成に大きな影響を与えたと思われる。そのためか戦後生まれの私たちよりも既成の価値観にとらわれない自由さと、剛毅な精神を併せ持っていた。建築の作品性という面では、モダニズムの原則に忠実な、愚直なまでの原理主義者であった。とりわけポストモダンの風潮には批判的で、主張を最後まで曲げない頑固さが私たち若い世代との軋轢を生んだ時期もあった。モダニズムの揺籃期を過ごした羽田にとって、当然の反応であった。その羽田も他界し、自由で進取の気性に富む精神は現在の事務所に引き継がれた。

こうして21世紀の初頭に建築の世界を展望する時、羽田がこだわりをみせたモダニズムが再び輝きを増しはじめたようにみえる。地方から見ると、反モダニズムから生まれた地域主義すら取りこみつつあると感じる。一世を風靡した、地方の建築とは屋根をのせることかと思わせる単純な風潮はなりを潜め、あらたな展開をはじめた感がある。

私たちがそのことに関心をもつのは、めざしてきた建築がプレモダンな風土的表現を超えたいと願ってきたからである。少なくとも地域の中に封じ込められた建築ではないデザインを求めてきた。それは、建築は常に時代の新しい精神をとりこみながら変化して当然であるし、そうあるべきだと考えるからである。

たとえば素材や工法を工夫することで、土地の風景や文化に同化させるあらたな風土的デザインの可能性もある。モダニズム=ユニバーサリズムの隆盛はそれを勢いづかせると感じている。当然、その隆盛の秘密はユニバーサリズムが情報化社会の建築表現にふさわしいという側面と、少し皮肉な見方をすれば、経済のバブル崩壊という側面のなかでぜい肉をおとさざるをえなくなった建築が、モダニズムの質素な美学を再発見した面がある。むしろ、実態は後者に近いのだろう。

地方が直接世界と繋がる現在、軽くて透明なモダニズムの感覚は、自然にあふれた地方にはよく似合う。何より重く暗い空間に取り囲まれてきた観のある地方には、自由な拡がりと開放的な表現をもつモダニズムこそふさわしいと感じる。その意味では地方の建築もようやく風土という狭い地域主義(しかも半ば便宜的にこじつけられた観のある)にとらわれた表現から解き放たれつつある。少なくとも建築家の関心が薄れてきたことは明らかである。もちろん、土着の文化が生みだした空間の魅力は継承されて当然であることはいうまでもない。

こんなことを書いたのは、実は山形と山を隔ててわずか60キロ先の仙台に、情報化時代を象徴するような建築イメージを持つ伊東豊雄のメディアテークが出現したことも影響している。なにより身近なところに世界レベルの建築ができたことの衝撃は大きい。それより土着の建築家としてもっと気になる建築は、木質系の材料とガラスを結び付けた表現の慶長船ミュージアムや馬頭町広重美術館である。こういうデザインをみると、土着の建築家の目をひらかせて、地方のごくありふれた場所にたつ建築が大きくゆたかな可能性をもつことを感じさせるからである。ともあれ、ここ数年東北やその周辺にできた外資の手−よそから来たアトリエ派の建築家−によるいくつかの建築は、新しい時代の雰囲気を伝え,黒船来航のように、この地に大きな影響を与えつつある。とすれば、迎え撃つ私たち土着の建築家はそれをどう受けとめ、どう折り合いをつけるか興味深い。少なくともこれからは外資と拮抗する力量が問われるだろう。

一方で、建築の表現とは別個の問題として、まちづくりや建築の企画や計画のプロセスに、少しずつユーザー参加という形でワークショップが広がり始めていることは何よりもうれしい。特に公共建築の実際の使い手と幅広い意見交換の場が増えてきていることは望ましい傾向である。さらに欲を言えばエンドユーザー参加の機会があれば理想である。私どもは、高齢者福祉施設「とかみ共生苑」のプロジェクトに構想の段階から5年間かかわった経験から、その期間の長さと議論の密度は結果の満足と必ず結びつくことを学んだ。

何よりそれぞれの分野のエキスパートがひざを交えて議論すれば、化学反応を起こしてあたらしい物質アイディアがうまれる可能性が高まることを、身をもって体験させられた。それは要請があれば何度でも何時でも足を運べるという、地域に腰を据えて活動をする者にのみ可能なことである。土着の建築家としての至福の時でもある。実はそれぞれが自由な立場で発言できるワークショップの現場から学ぶことの大きさははかり知れない。反面不勉強を思い知る場でもある。しかし相互の絶え間ないやりとりの中でもたらされる情報の深さと拡がりの生む成果は大きいと実感している。この経験から、できるだけ企画構想の段階から建築家としてプロジェクトに参加し、ユーザーとの議論を深める機会を多くつくりたいと願っている。むしろ、これまでは誰かに条件を整理してもらい、最終的に形にすることが建築家の仕事であるかのように、建築家自身もクライアントも思い込んでしまってきたように思えるからである。確かに、ユーザーという多様な主体との関わりのなかでは孤軍奮闘をせまられ、「建築をデザインする」という立場からみると忌避したい作業に思われがちである。しかし、その結果がユーザーの声不在の建築という形で今日納税者たる市民に重くのしかかっているのが現実である。これを打開するためには、建築家が日頃から積極的な形でまちづくりに関わりつづけることだろうと思う。地域の人々から信頼がなければ成し得ないのも事実だか
らである。しかし、そのような要請をうけることも、参加の機会も過去にはほとんどなかったのが現実であるが、最近は様相がすこしづつではあるが状況が変わってきた。

このように足元を見れば、テーマは山のようにあり、土着の建築家の課題はむしろ拡大している。社会が大きな変革期にある現在、建築家への期待と役割は大きい。地域と密着して設計活動を営むものとしては、否応なく地方が自立して生きるみちや魅力の創造にふかく関わってくる。明白なビジョンを持たない地域は沈没していきかねないからだ。今後はむしろまちづくりに積極的に関わらざるをえないのである。その結果として、土着の建築家としての基盤がより強固なものになるはずである。少なくとも幅広く多様な主体との関わりを忌避することによってではなく、悪戦苦闘の場面をとおして建築家としての構想力を示していきたいと考える。

私たちはこれまで「山形のあたらしい風景をつくる」という想いで、ひとつひとつの作品が伝統的な建築の魅力と共存し、拮抗する力を与えようと努めてきた。それはモダニズムの平明さと率直さが、やがて自然な形で日本人の心象風景にとけこむ日を、羽田とともに夢見てきたからである。幸いなことに、私たちの事務所は50年を超える歴史と、多様なプロジェクトに関わってきた経験の中で、この地への愛情と責任を感じ取ってきた。これからも決して地域の中に安穏とすることなく、
あらたな建築の創造をめざして、遠く深い眼差しをもってこの地で活動をつづけていきたい。

私たちは、去りゆくものが約束された土地への旅を無事にと、よりよく祈ることができる“美しい環境”をつくりたいと希いました。

寡黙な建築
私たちの提案する天童市斎場は、微妙ではかない光が支配する世界です。ここでは最近の斎場にみられる過剰な表現を避け、やわらかく透過された光と、土、石、木、水の、素材のみが語りかけてくる簡潔な建築手法を採っています。かつての民家が持っていた、陰影豊かで濃密な空間が初源的なイメージです。簡素な建築がもつ、美しい空間と静かな時間が織りなす世界を実現したいと考えました。ここで提案する建築は、日常とかけ離れた装飾の世界よりも、永遠の巡礼の旅に出る、去りゆくものへの想いが浮き彫りになるような、寡黙でシンプルな空間です。


所在地  山形県鶴岡市
敷地面積 12,605.0平方メートル
建築面積 2,655.0平方メートル
延床面積 2,845.0平方メートル
構造規模 RC造、地下1階、地上2階

主な外部仕上げ 
屋根/アスファルト防水 
外壁/ガラスカーテンウォール、
   コンクリート打放し
   フッ素樹脂クリアー塗装
   (ボンフロンAC
   カラークリアードライ工法)
建具/アルミカーテンウォール、
   アルミサッシ、ステンレスサッシ

主な内部仕上げ 
ロビー 
 床/花崗岩ジェットバーナー仕上 
 壁/コンクリート打放し
   フッ素樹脂クリアー塗装 
 天井/岩綿吸音板
屋内プール 
 床/ノンスリッププール用セラミックタイル 
 壁/コンクリート内放しアクリル塗装
 天井/耐湿岩綿吸音板(Tライナー工法)
    トレーニングルーム 
 床/カバザクラフローリング 
 壁/コンクリート
   内放しフッ素樹脂クリアー塗装、
   コンパネPBJ2重貼EP塗装 
 天井/岩綿吸音板
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MESSAGE
風景の構想力 街並み
future SITE 1998年5月号

 現代の都市や建築を作り出している空間の原理は、ヨーロッパを中心とする近代産業社会の成立と密接に関連づけられる。近代的な都市計画や建築は、つねに、産業社会の新しい権力の要請を受け入れてきた。そのためには空間を均質化する必要があった。均質化することによってはじめて、捜査がより容易になったからである。日本では明治期に近代化を受け入れて以来、かつての都市がもっていた、長い時間の中で醸し出された、場所や空間の濃密な意味が次第に剥ぎ取られてきた。特に戦後は、効率優先の経済合理主義に従って、機能的で操作可能な、無機質な空間に急速に置き換えられた。その結果、現在見られるような個性のない画一的な都市ができた。

 産業社会が登場する以前のヨーロッパの都市は、絶対的権力者によって支配され、「権力の空間化」が目に見える形で空間に翻訳されていた。都市は権力者の意思や、世界観を表すと同時に、美意識の顕現の場であった。またそれを誇りにもしてきた。そのような支配関係と欲望で作られたことを脇に置いて、パリやウィーンの街並みや景観の統一的な美しさを、私たち日本人は礼賛してきた。

 しかし最近、古典的な均整感を持ったヨーロッパの都市美だけを模範にし、日本の都市の現状を批判するか、あるいは無関心を装うだけでは、問題の解決にならないことに、ようやく気づき始めた。長い間放置されてきた、近代化によってもたらされた混乱を、日本固有の文化のなかで調停し、融合させる動きが、ようやく端緒につき始めたといってよい。この山形でも景観や街並みに対する関心が、このところ急速に高まりつつあるのはその流れであろう。衣食足りて礼節を気にし始めたというところだろうか。絶対権力者のいない、デモクラシーという現代の制度のなかでは、新しい規範を必要とする難しい仕事だ。景観をコントロールし、どこまで多様性をもった調和が実現できるか、今生きている世代の軽重が問われていると言ってよい。

 一方、七十年代の始め頃から、歴史的な街並みや建造物の保存運動が盛んになり、妻龍や馬龍の宿場町の保存や、倉敷アイビースクエアのように、紡績工場をホテルとして保存活用されたことをきっかけとして、伝統的な街並みや建造物を評価し再生利用する動きが始まった。全国各地に広まったこの運動は、ある一定の成果を収めてきたのは事実である。しかし、文化財としての価値が広く認められ、文化財保護委員会のお墨付きを得られた、ごくごく少数の街並みや建物を除けば、大半は無惨にも壊され、捨てられてきたのが現実である。もっともっと多くの建物が残されるべきであった。現在、山形では江戸や明治どころか、昭和戦前の建物すら風前の灯となりつつある。このまま進めば、やがて、歴史をとどめる手掛かりのほとんどない、過去の記憶を失ったような街ができる危険がある。江戸から明治、大正、昭和、それに平成とつながる、街並みや建物だけでなく、自然を含めた風景を、どのような形で継承し未来に繋げていくか、関心をもつ人は少数ではないはずである。ながい間、スクラップアンドビルドを繰り返してきた結果、歴史の厚みとは無縁な、奥行きや壁のないぺらぺらな街になりつつあることを危惧する。

 つい最近、山形市の老舗旅館、後藤又兵衛旅館の解体を巡る動きも、まさにその事を予感させる象徴的な出来事であった。旅館が廃業した後、建物が壊されることに反対する運動が起こった。保存活用のために移築などの様々な意見やアイデアが出され、一時は、部分的ではあるが保存活用される可能性も見え隠れはしたが、実際は跡形もなくごみとなってしまうことになった。この保存運動に多少なりともかかわりを持った人間の一人としては、残念な結果である。ごく一部でも残す意思さえあれば、わずかな金で残せる可能性は十分にあったと思う。それにしても、三百五十年の歴史を持ち、住時を偲ばせるまとまった景観をもつ、数少ない建造物の一つが消失してしまうことは、悔いが残る。町の歴史をとどめる建造物がつくりだす景観は公共財である。なにがしかの形でも残そうという努力が、関係者の間であってよかったはずである。登録文化財の一時調査にも上り、その十分な価値を備えながら、山形の歴史を物語る建物がまた一つ消えてしまう。

 都市計画が専門の東北芸術工科大学の高野公男教授によると、山形は戦災に遭わなかった町の割には、歴史をとどめる街並みや建造物が少ないそうである。それはいったい何を物語っているのだろうか。街づくりとは、歩道をきれいなタイルで舗装したり、電柱を地中化することだけではない。いわんや、登録文化財としての価値をもった建物をみすみす壊してしまうことではないはずである。町の歴史を語る建物を大切に保存し、その記憶を語り継ぎながら、その中で生き続けるいのちを永く後世に伝え、人々との豊かな交感を生み出すことは、大切な仕事である。私達はスクラップアンドビルドを安易に繰り返した過去を率直に反省する必要がある。今日こそ、均質で匿名性を持った空間を、意味ある場所に変え、深い壁と奥行きを感じさせる、豊かな表情を持つ風景を作り上げることが求められている。そのためには、先人たちの暮らしぶりや歴史を物語る家並みが、日頃から丹念に保存され、大切に利用される気運を、盛り上げていくことは大切であると考える。街の至る所に、これらの建物が散りばめられることで、新しく作られる建物も、やがて深い配慮を持って作られ、慎みのある表情に変えていく責任が私たちにはある。

 現代に生きる人々は、インターネットに代表されるメディアによって、住む場所を選ばないライフスタイルになりつつある。だから、現実に生きている都市に関心がないという人たちもいる。しかし、そうした仮想現実的な体験が増えれば増えるほど、自然の光とか空気や風、それに目の前に広がる景色や景観といった、体で直接体験しうる空間の質がかえって、大切になってくるはずである。かつての世代までが生きた、あの濃密なまでの共同体的空間とはちがった、この現実に体験しうる都市や、建築を豊かな風景として後世に伝えるためにも、私たち世代の構想力が問われている。


所在地  山形県山形市
所要用途 特別養護老人ホーム
敷地面積 15,045.0平方メートル
建築面積 5,643.6平方メートル
延床面積 5,518.1平方メートル
構造規模 RC造、S造、W造、平屋建、地下1階、地上2階

主な外部仕上げ 
屋根/亜鉛合金版 
段葺 外壁/アクリル樹脂吹付、フッ素樹脂着色クリア吹付
   建具/木製建具、アルミ建具

主な内部仕上げ 
多目的室 
 床/フローリング貼(ナラ) 
 壁/トラバーチン水磨、ナラ練付パネル
 天井/GB-R+AEP 
居間・食堂 
 床/コルクタイル貼 
 壁/アクリル樹脂吹付 
 天井/米松縁甲板貼
居室 
 床/コルクタイル貼 
 壁/ビニールクロス貼 
 天井/ビニールクロス貼
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