羽田設計事務所

HaDA Sekkei
羽田設計事務所

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メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト
2009 県営住宅通町団地
2009 水盤のある家
2009 さくらんぼテレビジョンスタジオ
2009 置賜スポーツ交流プラザ 湯るっと
2009 米沢市公営住宅塩井町団地
2008 Nビル新築工事
2008 庄内町新産業創造館
2008 一日町の家(O邸)
2007 Sクリニック
2007 七日町の家(N邸)
2007 山形県営松境・住吉団地移転建替及び
   酒田市琢成学区コミュニティ防災センター
2007 東根消防署
2007 MSI本社ビル
2007 尾花沢市立福原中学校・体育館
2007 ダイヤ26B
2006 ギャラリーのあるゲストハウス
2006 レジデンスTOMO
2006 大手門パルズ
2006 六日町グリーンハイツ改修及び増築
2005 尾花沢市地域介護・福祉空間整備等事業
2005 特別養護老人ホームとかみ共生苑地域介護予防リハビリセンター増築
2005 特別養護老人ホームとかみ共生苑ドライエリア改修
2005 特別養護老人ホームしらいわ(仮称)
2005 東海大山形高等学校 トレーニングセンター改築
2005 鶴岡社会保険事務所レイアウト変更
2005 地域ケアセンター東陽館改修
2005 T邸
2005 T邸
2005 S邸
2005 山辺プール改築
2005 山形県自動車販売店リサイクルセンター
2005 在宅介護複合施設ほづみ
2005 最上川中流土地改良区管理棟
2005 S邸
2005 K邸
2005 花登茂店舗併用住宅改修
2004 オフィスナインビル
2005 (仮称)第2はとみね荘
2004 遊佐中央児童館(仮称)施設
2004 東海大学山形高等学校環境設備
2004 田の字ハウス Tall type Vol 1
2004 T邸
2004 朝日プラザエザース山形中央口修繕
2004 蔵王やすらぎの里軽費老人ホーム改修
2004 勤労者福祉センター教育会館 
2004 おしゃれサロンへあ増築
2004 (仮称)オフィス・ナインビル新築
2003 Sスタジオ
2003 特別養護老人ホーム蔵王やすらぎの里修繕
2003 特別養護老人ホームとかみ共生苑増築改修
2003 鶴岡地区医師会介護老人保健施設
2003 M邸
2003 なかやま保育所
2003 山形市鈴川公民館
2003 山形市社会保険事務所庁舎来客拡張等
2003 寒河江やすらぎの里増改築
2003 介護付有料老人ホームやすらぎ苑
2003 I邸改修
2003 グループホーム出羽共立苑
2003 山口ハートクリニック
2003 (仮称)あいあい特別養護老人ホーム
2002 米沢六中
2002 平成(13年度)黒川地区活性化施設
2002 内藤医院
2002 I邸
2002 山形トヨタ鶴岡営業所改修
2002 山形トヨタ新庄営業所(工場)増築
2002 高畠町営体育館改修
2002 荒砥駅前交流施設整備
2001 木の実保育園増築
2001 高畠町立屋代小学校屋外プール改築
2001 高畠町コミュニティプール施設改修
2001 K邸
2001 グループホームとかみ共生苑増築

1969 日米商事 北町給油所  
1969 南陽市立赤湯保育園  
1969 南陽市消防庁舎  
1969 事務機センター感光社  
1969 山形市立蔵王第三中学校屋内運動場  
1969 山形県労働金庫 鶴岡支店  
1969 高畠町立屋代小学校  
1969 県立鶴岡病院 管理サービス等  
1969 遠藤商事本社社屋  
1969 遠藤商事 大野目給油所  
1969 H邸  
1968 大石田町立白鷹分校  
1968 多郎兵衛旅館  
1968 新山形いすずモーター  
1968 小川医院  
1968 小国町町民プール  
1968 小国町沖庭小学校屋内運動場  
1968 山辺町立中央公民館  
1968 山形市立蔵王第三小学校  
1968 県立養蚕試験場  
1968 県精神障害者救護施設  
1968 吉本旅館  
1968 皆瀬総合センター  
1968 G邸  
1967 中川小学校屋内運動場  
1967 大江町庁舎  
1967 新庄社会保険事務所  
1967 小国町立玉川小学校  
1967 小国町開発総合センター  
1967 山形美術博物館増築  
1967 山形県消防学校  
1967 山形ダイハツ 米沢営業所  
1967 高畠町庁舎  
1967 高畠町消防庁舎  
1967 高畑町立糠野目小学校  
1967 県立米沢商業高等学校  
1967 ZAOドライブイン  
1967 T邸  
1967 S邸  
1967 S邸  
1967 K邸  
1967 I邸  
1967 I邸  
1966 飯豊町立中津川中学校  
1966 飯豊第二小学校  
1966 赤湯町立中川小学校  
1966 小国町立足中小学校  
1966 出羽三山神社増築  
1966 蚕業技術研修館  
1966 産業会館酒田  
1966 阿部商事  
1966 ZAO GARDEN    
1966 T邸  
1966 S邸  
1965 柏倉ビル  
1965 蔵王ロープウエイ山頂駅休憩所  
1965 山形いすず 鶴岡営業所  
1965 県立天童商工高校屋内運動場  
1965 宮内町立宮内中学校  
1964 防衛庁 蔵王‘蔵王青年隊員の家‘  
1964 飯豊町立第二小学校  
1964 長井市立総合病院 精神科病棟  
1964 精栄堂印刷所  
1964 新庄観光案内所  
1964 山交 市役所バス停留所  
1964 山形県立小国高等学校  
1964 山形いすず サービスセンター  
1964 霞城自動車専門学校  
1964 シェル石油 山形南給油所  
1964 アートビューティーサロン  
1964 S邸  
1964 N邸  
1964 N邸  
1964 M邸  
1963 米沢市立第五中学校  
1963 山形美術博物館  
1963 山形新聞 山形放送 米沢支社  
1963 宮川アパート  
1963 むつみ洋裁学院  
1963 K邸  
1962 大蔵村庁舎  
1962 醸造会館  
1962 山形社会保険出張所  
1962 山形市立上山小学校  
1962 山形県研修センター  
1962 山形いすず サービスセンター  
1962 公立県南総合病院  
1962 S邸  
1961 湯沢 皆常商店  
1961 小白川商店  
1961 小国小学校  
1961 小原写真機店  
1961 山形新聞 鶴岡支局  
1961 山形トヨタ自動車株式会社  
1961 高楯山TV送信所  
1961 後藤歯科医院  
1961 県立新庄工業高校  
1961 宮内町立吉野中学校屋内運動場  
1961 岡崎医院  
1961 いとや商店  
1961 YBC蔵王中継所  
1961 O邸  
1961 O邸  
1961 K邸  
1961 K邸  
1960 余目町庁舎  
1960 遊佐町庁舎  
1960 野々村 改装  
1960 農協寄宿舎  
1960 村尾旅館改造  
1960 蔵王パークホテル  
1960 荘内銀行 酒田支店  
1960 松栄ホール  
1960 山形県自治会館  
1960 高畠第三中学校  
1960 高畠第一中学校  
1960 すずらん街店舗  
1960 O邸

1980 トヨタカローラ山形 トレーニングセンター
1980 南陽市庁舎
1980 大蔵村立赤松小学校
1980 荘内銀行 天童中央支店
1980 上山市立南中学校
1980 山交ハイヤー株式会社 本社社屋
1980 山形市立滝山小学校 校舎
1980 碁点レクリエーションセンター  
1980 皆瀬村運動広場  
1980 歌懸稲荷神社 社宅  
1980 M邸  
1980 I邸
1979 白田写真館  
1979 日本ミリポア工業(株)米沢工場  
1979 新野電子(株)  
1979 新野産婦人科医院  
1979 沼沢井出病院  
1979 山交整備(株)  
1979 山形市総合福祉センター  
1979 山形県労働金庫 山形北支店  
1979 山形県第一信用組合  
1979 山形ナショナル 酒田営業所  
1979 山形いすず 寒河江営業所  
1979 山の家  
1979 寒河江市市民体育館  
1978 日米商事 深町給油所  
1978 大蔵村立肘折小学校体育館  
1978 大蔵村立中央公民館  
1978 小安幼児プール  
1978 山辺町立山辺小学校校舎  
1978 山形市立滝山小学校校舎  
1978 山形市立蔵王第一小学校屋内運動場  
1978 山形いすず寒河江営業所  
1978 喜久屋旅館増築  
1978 寒河江ダム周辺振興管理センター  
1978 皆瀬幼児プール  
1978 ヤマケン 秋田営業所  
1978 S邸  
1977 保養所むつみ荘  
1977 大蔵村立肘折小学校  
1977 新和ボーリング事務所  
1977 山形交通本社ビル  
1977 山形県労働金庫新庄支店  
1977 山形県営野球場  
1977 山形県ニットセンター  
1977 山形トヨタ大の目営業所  
1977 最上町町民体育館  
1977 寒河江市民プール  
1977 S邸  
1976 天元台レストハウス  
1976 蔵王ドライブイン  
1976 山形市立蔵王第一小学校  
1976 山形県自治会館  
1976 香月堂  
1976 吉本旅館改築  
1976 S邸  
1976 (株)みちのく企業駅前貸し店舗  
1975 石巻屋商店  
1975 山形市立第九中学校屋内運動場  
1975 三沢商店  
1975 最上町立瀬見公民館  
1975 皆瀬村幼稚園  
1975 トヨタカローラ山形 米沢営業所  
1974 日米商事 長井給油所  
1974 大蔵村立沼台小中学校  
1974 千足屋 米沢第二営業所  
1974 山交 坊平高原ロッジ  
1974 山形トヨタ 南陽営業所  
1974 (株)須山商店  
1973 大蔵村立沼台小学校屋内運動場  
1973 荘内銀行 北町支店  
1973 新和調査設計事務所  
1973 商工中金酒田事務所  
1973 山形市立第九中学校  
1973 山形交通 長井出張所  
1973 山形県教育センター  
1973 山形県遺族会事務所  
1973 山形いすず 米沢営業所  
1973 最上町庁舎  
1973 高畠町立亀岡小学校  
1973 高畠町営体育館  
1973 県立新庄農業高校自営者養成寄宿舎  
1973 吉井屋商事株式会社  
1973 O邸  
1973 N邸  
1972 日米商事 双月給油所  
1972 渡辺外科医院  
1972 大蔵中学校屋内運動場
1972 最上コミュニティーセンター  
1972 佐藤商店  
1972 高畠町立屋代小学校屋内運動場  
1972 県立村山農業高校寮  
1972 寒河江消防庁舎  
1972 寒河江市立国保病院  
1972 寒河江市民会館  
1972 皆瀬村給食センター  
1972 皆瀬総合センタープール  
1972 カローラ山形 長井営業所  
1972 U邸  
1972 N邸  
1971 米沢商工会議所会館  
1971 日米商事 駅前給油所  
1971 日米プラザ 青田  
1971 南陽市立宮内小学校  
1971 東海林アパート  
1971 大蔵中学校  
1971 大蔵村保養センター  
1971 山形県消防学校
1971 佐藤商店
1971 ヤマコーボウルタカハタ
1971 ヤマコーボウルオグニ
1971 M邸
1971 K邸

1990 遊佐町立図書館
1990 日米商事 東本町給油所
1990 日米商事 十文字給油所
1990 朝日プラザ十日町-?
1990 山辺町立山辺小学校屋内運動場
1990 山形地区高等学校屋内共用プール
1990 山形第一信用組合赤湯西支店
1990 山形駅前ビル
1990 国民年金保養センターもがみ 増改築
1990 戸沢村立神田小学校屋内運動場
1990 もんま内科皮膚科医院
1989 労働金庫小国出張所
1989 遊佐町庁舎補修
1989 平田町立南平田小学校屋内運動場
1989 特別養護老人ホーム・デイサービスセンター ながまち荘
1989 朝日プラザ十日町
1989 山辺町立武道館
1989 山辺町学校給食センター
1989 山形市立病院済生館 
1989 山形市立蔵王第二中学校
1989 山形トヨタ長井営業所
1989 佐藤小児科医院
1989 高畠町立第一中学校屋内運動場
1989 戸沢村立神田小学校
1989 県営駐車場
1989 コーポ東海林
1989 O邸
1988 荘内銀行米沢北支店
1988 江川食料品店
1988 カメイ(株)山形支店
1988 (株)平野屋飴工場
1987 平田町立南平田小学校
1987 東邦精機(株)
1987 真室川町立小又保育所
1987 真室川町立共同福祉施設
1987 真室川町町民保養センター
1987 小森山形エレクトロニクス増築
1987 山形市立山寺小学校プール
1987 山形県労働金庫本店営業部
1987 山形共立本社ビル
1987 高畠町庁舎改修
1987 トヨタオート山形KK 酒田営業所増築
1987 こーぽかじょう
1987 K邸
1986 長栄精密製作所
1986 真室川町立病院
1986 山形県労働金庫 村山支店
1986 グリーンビデオセンター`創夢館‘ 新潟駅南店
1986 Y邸
1985 日米商事城北給油所
1985 南陽市立赤湯中学校屋内運動場
1985 蔵王自動車学園
1985 小森山形エレクトロニクス
1985 山形郵便輸送社屋
1985 山形第一信用組合赤湯支店
1985 山形大日(株)工場
1985 山形市立山寺小学校
1985 山形トヨタ本社
1985 最上中学校屋内運動場
1985 最上石油松本サービスステーション
1985 厚生年金‘くろさわ荘‘
1985 県立米沢興譲館高等学校校舎
1985 軽食喫茶 アンジェリーナ
1985 やまがた社会保険センター
1985 トヨタ部品宮城共販(株)庄内営業所
1985 トヨタ部品宮城共販(株)山形支社
1985 K邸
1984 大石田町立横山保育所
1984 蔵王健康保険保養所
1984 真室川町立真室川中学校寄宿舎
1984 庄内銀行 新庄南支店
1984 若松屋ビル
1984 山形県最上合同庁舎
1984 山形トヨタ自動車株式会社 酒田営業所
1984 最上町立最上中学校
1984 岸塚機器工業(株)米沢工場
1984 グリーンビデオセンター`創夢館‘
1984 アーティスト豊田
1983 日米商事 西田給油所
1983 西川町高齢者コミュニティーセンター
1983 山形市議員会館・山形市健康センター
1983 山形県労働金庫 天童支店
1983 山形県立県北少年自然の家
1983 山形ナショナル 鶴岡営業所
1983 山形トヨタ自動車株式会社 天童営業所
1983 厚生年金‘山形くろさわ荘‘増改築
1983 遠藤商事 桜田給油所
1983 I邸
1983 G邸
1982 南陽市立病院改造
1982 南陽市立赤湯中学校
1982 村山市民体育館
1982 山辺町温泉保養センター
1982 山形市立第十中学校屋内運動場
1982 山形県労働金庫 南陽支店
1982 山形トヨタ自動車株式会社
1982 山形いすず自動車 新庄営業所
1982 最上川中流土地改良区管理棟
1982 宮城いすず自動車 古川営業所
1981 鶴岡社会保険事務所
1981 大地会館
1981 大石田町老人いこいの家プレイルーム
1981 村山市‘市民の広場‘
1981 西村医院
1981 新庄社会保険事務所
1981 上山養護学校ゆきわり分校
1981 山辺町総合体育館
1981 山形社会保険事務所庁舎
1981 山形市立第十中学校校舎
1981 山形県労働金庫 上山支店
1981 山形県労働金庫 寒河江支店
1981 最上町立大堀小学校屋内運動場
1981 碁点レクリエーションセンター宿泊棟

私たちの師である羽田他所夫は金沢の生まれであったが、戦後山形の地に腰を据え、建築の作品にとどまらず、さまざまな分野で近代化を推し進めた生粋のモダニストであった。羽田が生を享けたのは1917年、ロシア革命の年である。その頃の日本は大正デモクラシーや世界恐慌、軍国主義の嵐が吹き荒れ、建築のモダニズム運動の影響とともに、青年期の思想形成に大きな影響を与えたと思われる。そのためか戦後生まれの私たちよりも既成の価値観にとらわれない自由さと、剛毅な精神を併せ持っていた。建築の作品性という面では、モダニズムの原則に忠実な、愚直なまでの原理主義者であった。とりわけポストモダンの風潮には批判的で、主張を最後まで曲げない頑固さが私たち若い世代との軋轢を生んだ時期もあった。モダニズムの揺籃期を過ごした羽田にとって、当然の反応であった。その羽田も他界し、自由で進取の気性に富む精神は現在の事務所に引き継がれた。

こうして21世紀の初頭に建築の世界を展望する時、羽田がこだわりをみせたモダニズムが再び輝きを増しはじめたようにみえる。地方から見ると、反モダニズムから生まれた地域主義すら取りこみつつあると感じる。一世を風靡した、地方の建築とは屋根をのせることかと思わせる単純な風潮はなりを潜め、あらたな展開をはじめた感がある。

私たちがそのことに関心をもつのは、めざしてきた建築がプレモダンな風土的表現を超えたいと願ってきたからである。少なくとも地域の中に封じ込められた建築ではないデザインを求めてきた。それは、建築は常に時代の新しい精神をとりこみながら変化して当然であるし、そうあるべきだと考えるからである。

たとえば素材や工法を工夫することで、土地の風景や文化に同化させるあらたな風土的デザインの可能性もある。モダニズム=ユニバーサリズムの隆盛はそれを勢いづかせると感じている。当然、その隆盛の秘密はユニバーサリズムが情報化社会の建築表現にふさわしいという側面と、少し皮肉な見方をすれば、経済のバブル崩壊という側面のなかでぜい肉をおとさざるをえなくなった建築が、モダニズムの質素な美学を再発見した面がある。むしろ、実態は後者に近いのだろう。

地方が直接世界と繋がる現在、軽くて透明なモダニズムの感覚は、自然にあふれた地方にはよく似合う。何より重く暗い空間に取り囲まれてきた観のある地方には、自由な拡がりと開放的な表現をもつモダニズムこそふさわしいと感じる。その意味では地方の建築もようやく風土という狭い地域主義(しかも半ば便宜的にこじつけられた観のある)にとらわれた表現から解き放たれつつある。少なくとも建築家の関心が薄れてきたことは明らかである。もちろん、土着の文化が生みだした空間の魅力は継承されて当然であることはいうまでもない。

こんなことを書いたのは、実は山形と山を隔ててわずか60キロ先の仙台に、情報化時代を象徴するような建築イメージを持つ伊東豊雄のメディアテークが出現したことも影響している。なにより身近なところに世界レベルの建築ができたことの衝撃は大きい。それより土着の建築家としてもっと気になる建築は、木質系の材料とガラスを結び付けた表現の慶長船ミュージアムや馬頭町広重美術館である。こういうデザインをみると、土着の建築家の目をひらかせて、地方のごくありふれた場所にたつ建築が大きくゆたかな可能性をもつことを感じさせるからである。ともあれ、ここ数年東北やその周辺にできた外資の手−よそから来たアトリエ派の建築家−によるいくつかの建築は、新しい時代の雰囲気を伝え,黒船来航のように、この地に大きな影響を与えつつある。とすれば、迎え撃つ私たち土着の建築家はそれをどう受けとめ、どう折り合いをつけるか興味深い。少なくともこれからは外資と拮抗する力量が問われるだろう。

一方で、建築の表現とは別個の問題として、まちづくりや建築の企画や計画のプロセスに、少しずつユーザー参加という形でワークショップが広がり始めていることは何よりもうれしい。特に公共建築の実際の使い手と幅広い意見交換の場が増えてきていることは望ましい傾向である。さらに欲を言えばエンドユーザー参加の機会があれば理想である。私どもは、高齢者福祉施設「とかみ共生苑」のプロジェクトに構想の段階から5年間かかわった経験から、その期間の長さと議論の密度は結果の満足と必ず結びつくことを学んだ。

何よりそれぞれの分野のエキスパートがひざを交えて議論すれば、化学反応を起こしてあたらしい物質アイディアがうまれる可能性が高まることを、身をもって体験させられた。それは要請があれば何度でも何時でも足を運べるという、地域に腰を据えて活動をする者にのみ可能なことである。土着の建築家としての至福の時でもある。実はそれぞれが自由な立場で発言できるワークショップの現場から学ぶことの大きさははかり知れない。反面不勉強を思い知る場でもある。しかし相互の絶え間ないやりとりの中でもたらされる情報の深さと拡がりの生む成果は大きいと実感している。この経験から、できるだけ企画構想の段階から建築家としてプロジェクトに参加し、ユーザーとの議論を深める機会を多くつくりたいと願っている。むしろ、これまでは誰かに条件を整理してもらい、最終的に形にすることが建築家の仕事であるかのように、建築家自身もクライアントも思い込んでしまってきたように思えるからである。確かに、ユーザーという多様な主体との関わりのなかでは孤軍奮闘をせまられ、「建築をデザインする」という立場からみると忌避したい作業に思われがちである。しかし、その結果がユーザーの声不在の建築という形で今日納税者たる市民に重くのしかかっているのが現実である。これを打開するためには、建築家が日頃から積極的な形でまちづくりに関わりつづけることだろうと思う。地域の人々から信頼がなければ成し得ないのも事実だか
らである。しかし、そのような要請をうけることも、参加の機会も過去にはほとんどなかったのが現実であるが、最近は様相がすこしづつではあるが状況が変わってきた。

このように足元を見れば、テーマは山のようにあり、土着の建築家の課題はむしろ拡大している。社会が大きな変革期にある現在、建築家への期待と役割は大きい。地域と密着して設計活動を営むものとしては、否応なく地方が自立して生きるみちや魅力の創造にふかく関わってくる。明白なビジョンを持たない地域は沈没していきかねないからだ。今後はむしろまちづくりに積極的に関わらざるをえないのである。その結果として、土着の建築家としての基盤がより強固なものになるはずである。少なくとも幅広く多様な主体との関わりを忌避することによってではなく、悪戦苦闘の場面をとおして建築家としての構想力を示していきたいと考える。

私たちはこれまで「山形のあたらしい風景をつくる」という想いで、ひとつひとつの作品が伝統的な建築の魅力と共存し、拮抗する力を与えようと努めてきた。それはモダニズムの平明さと率直さが、やがて自然な形で日本人の心象風景にとけこむ日を、羽田とともに夢見てきたからである。幸いなことに、私たちの事務所は50年を超える歴史と、多様なプロジェクトに関わってきた経験の中で、この地への愛情と責任を感じ取ってきた。これからも決して地域の中に安穏とすることなく、
あらたな建築の創造をめざして、遠く深い眼差しをもってこの地で活動をつづけていきたい。
私たちは、去りゆくものが約束された土地への旅を無事にと、よりよく祈ることができる“美しい環境”をつくりたいと希いました。

寡黙な建築
私たちの提案する天童市斎場は、微妙ではかない光が支配する世界です。ここでは最近の斎場にみられる過剰な表現を避け、やわらかく透過された光と、土、石、木、水の、素材のみが語りかけてくる簡潔な建築手法を採っています。かつての民家が持っていた、陰影豊かで濃密な空間が初源的なイメージです。簡素な建築がもつ、美しい空間と静かな時間が織りなす世界を実現したいと考えました。ここで提案する建築は、日常とかけ離れた装飾の世界よりも、永遠の巡礼の旅に出る、去りゆくものへの想いが浮き彫りになるような、寡黙でシンプルな空間です。

所在地  山形県鶴岡市
敷地面積 12,605.0平方メートル
建築面積 2,655.0平方メートル
延床面積 2,845.0平方メートル
構造規模 RC造、地下1階、地上2階

主な外部仕上げ 
屋根/アスファルト防水 
外壁/ガラスカーテンウォール、
   コンクリート打放し
   フッ素樹脂クリアー塗装
   (ボンフロンAC
   カラークリアードライ工法)
建具/アルミカーテンウォール、
   アルミサッシ、ステンレスサッシ

主な内部仕上げ 
ロビー 
 床/花崗岩ジェットバーナー仕上 
 壁/コンクリート打放し
   フッ素樹脂クリアー塗装 
 天井/岩綿吸音板
屋内プール 
 床/ノンスリッププール用セラミックタイル 
 壁/コンクリート内放しアクリル塗装
 天井/耐湿岩綿吸音板(Tライナー工法)
    トレーニングルーム 
 床/カバザクラフローリング 
 壁/コンクリート
   内放しフッ素樹脂クリアー塗装、
   コンパネPBJ2重貼EP塗装 
 天井/岩綿吸音板
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MESSAGE
風景の構想力 街並み
future SITE 1998年5月号

 現代の都市や建築を作り出している空間の原理は、ヨーロッパを中心とする近代産業社会の成立と密接に関連づけられる。近代的な都市計画や建築は、つねに、産業社会の新しい権力の要請を受け入れてきた。そのためには空間を均質化する必要があった。均質化することによってはじめて、捜査がより容易になったからである。日本では明治期に近代化を受け入れて以来、かつての都市がもっていた、長い時間の中で醸し出された、場所や空間の濃密な意味が次第に剥ぎ取られてきた。特に戦後は、効率優先の経済合理主義に従って、機能的で操作可能な、無機質な空間に急速に置き換えられた。その結果、現在見られるような個性のない画一的な都市ができた。

 産業社会が登場する以前のヨーロッパの都市は、絶対的権力者によって支配され、「権力の空間化」が目に見える形で空間に翻訳されていた。都市は権力者の意思や、世界観を表すと同時に、美意識の顕現の場であった。またそれを誇りにもしてきた。そのような支配関係と欲望で作られたことを脇に置いて、パリやウィーンの街並みや景観の統一的な美しさを、私たち日本人は礼賛してきた。

 しかし最近、古典的な均整感を持ったヨーロッパの都市美だけを模範にし、日本の都市の現状を批判するか、あるいは無関心を装うだけでは、問題の解決にならないことに、ようやく気づき始めた。長い間放置されてきた、近代化によってもたらされた混乱を、日本固有の文化のなかで調停し、融合させる動きが、ようやく端緒につき始めたといってよい。この山形でも景観や街並みに対する関心が、このところ急速に高まりつつあるのはその流れであろう。衣食足りて礼節を気にし始めたというところだろうか。絶対権力者のいない、デモクラシーという現代の制度のなかでは、新しい規範を必要とする難しい仕事だ。景観をコントロールし、どこまで多様性をもった調和が実現できるか、今生きている世代の軽重が問われていると言ってよい。

 一方、七十年代の始め頃から、歴史的な街並みや建造物の保存運動が盛んになり、妻龍や馬龍の宿場町の保存や、倉敷アイビースクエアのように、紡績工場をホテルとして保存活用されたことをきっかけとして、伝統的な街並みや建造物を評価し再生利用する動きが始まった。全国各地に広まったこの運動は、ある一定の成果を収めてきたのは事実である。しかし、文化財としての価値が広く認められ、文化財保護委員会のお墨付きを得られた、ごくごく少数の街並みや建物を除けば、大半は無惨にも壊され、捨てられてきたのが現実である。もっともっと多くの建物が残されるべきであった。現在、山形では江戸や明治どころか、昭和戦前の建物すら風前の灯となりつつある。このまま進めば、やがて、歴史をとどめる手掛かりのほとんどない、過去の記憶を失ったような街ができる危険がある。江戸から明治、大正、昭和、それに平成とつながる、街並みや建物だけでなく、自然を含めた風景を、どのような形で継承し未来に繋げていくか、関心をもつ人は少数ではないはずである。ながい間、スクラップアンドビルドを繰り返してきた結果、歴史の厚みとは無縁な、奥行きや壁のないぺらぺらな街になりつつあることを危惧する。

 つい最近、山形市の老舗旅館、後藤又兵衛旅館の解体を巡る動きも、まさにその事を予感させる象徴的な出来事であった。旅館が廃業した後、建物が壊されることに反対する運動が起こった。保存活用のために移築などの様々な意見やアイデアが出され、一時は、部分的ではあるが保存活用される可能性も見え隠れはしたが、実際は跡形もなくごみとなってしまうことになった。この保存運動に多少なりともかかわりを持った人間の一人としては、残念な結果である。ごく一部でも残す意思さえあれば、わずかな金で残せる可能性は十分にあったと思う。それにしても、三百五十年の歴史を持ち、住時を偲ばせるまとまった景観をもつ、数少ない建造物の一つが消失してしまうことは、悔いが残る。町の歴史をとどめる建造物がつくりだす景観は公共財である。なにがしかの形でも残そうという努力が、関係者の間であってよかったはずである。登録文化財の一時調査にも上り、その十分な価値を備えながら、山形の歴史を物語る建物がまた一つ消えてしまう。

 都市計画が専門の東北芸術工科大学の高野公男教授によると、山形は戦災に遭わなかった町の割には、歴史をとどめる街並みや建造物が少ないそうである。それはいったい何を物語っているのだろうか。街づくりとは、歩道をきれいなタイルで舗装したり、電柱を地中化することだけではない。いわんや、登録文化財としての価値をもった建物をみすみす壊してしまうことではないはずである。町の歴史を語る建物を大切に保存し、その記憶を語り継ぎながら、その中で生き続けるいのちを永く後世に伝え、人々との豊かな交感を生み出すことは、大切な仕事である。私達はスクラップアンドビルドを安易に繰り返した過去を率直に反省する必要がある。今日こそ、均質で匿名性を持った空間を、意味ある場所に変え、深い壁と奥行きを感じさせる、豊かな表情を持つ風景を作り上げることが求められている。そのためには、先人たちの暮らしぶりや歴史を物語る家並みが、日頃から丹念に保存され、大切に利用される気運を、盛り上げていくことは大切であると考える。街の至る所に、これらの建物が散りばめられることで、新しく作られる建物も、やがて深い配慮を持って作られ、慎みのある表情に変えていく責任が私たちにはある。

 現代に生きる人々は、インターネットに代表されるメディアによって、住む場所を選ばないライフスタイルになりつつある。だから、現実に生きている都市に関心がないという人たちもいる。しかし、そうした仮想現実的な体験が増えれば増えるほど、自然の光とか空気や風、それに目の前に広がる景色や景観といった、体で直接体験しうる空間の質がかえって、大切になってくるはずである。かつての世代までが生きた、あの濃密なまでの共同体的空間とはちがった、この現実に体験しうる都市や、建築を豊かな風景として後世に伝えるためにも、私たち世代の構想力が問われている。

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