出羽・最上の戦国関連情報(@endnob)

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☆最上義光歴史館のサイトでこんな系図を発見。この系図は白石城主片倉氏家臣の諸系譜をつなげたものとの説明がある。興味深いのは「本沢真直」が片倉小十郎景綱の母方のおじいちゃんだということ。
  最上義光歴史館関連ページ
☆「本沢」という苗字は、伊達領の置賜郡ではなく、最上郡の家の苗字という印象が強い。長谷堂城のある地区が、山形市本沢地区だから、あの辺りの国人衆ではないかな。とすれば、最上家重臣の氏家家と縁戚であってもおかしくはない。
☆本沢真直が片倉家臣というのは間違いだと思う。最上家改易時に、本沢家が片倉家を頼り、家臣になったということならあり得る。
☆系図にでている飯田家は、最上八楯のひとつの飯田家ですな。片倉小十郎の「小十郎」は、外叔父(母方の叔父)の飯田小十郎の武勇にあやかって付けられたというから、飯田家と縁戚であっても不思議はない。
☆飯田小十郎は、慶長出羽合戦において畑谷城救援に赴いて戦死した飯田播磨守信兼のことなのか、その父のことなのかがはっきりしない。
☆本沢真直の娘(片倉小十郎のおば)が氏家守棟嫡男の光棟に嫁いだというのは世代的に合わないかなと。しかも、光棟は最上義光三女の竹姫を娶ったといわれている。(その後、光棟は十五里ヶ原の戦いで戦死) 氏家守棟と片倉喜多がほぼ同じ世代であることを考慮すると、本沢真直の娘が嫁いだのは氏家定直だろうか?
☆本沢真直の娘が氏家定直に嫁いだのだとすると、氏家守棟と片倉小十郎という最上・伊達の参謀が従兄弟同士の関係だった可能性が出てくるのだが…
☆氏家家と片倉小十郎の繋がりが分かると、最上義守が病気で一時重篤になった際、枕元に呼ばれた重臣が、最上は氏家守棟と志村光安、伊達は遠藤基信とまだ若い片倉小十郎だったことにも納得がいく。
☆政宗の乳母(教育係)に片倉喜多、近侍に片倉小十郎を配したのは、直接我が子の養育にたずさわれない義姫の意向があったのではないかと思う。
☆最上義光・氏家守棟の関係と、伊達政宗・片倉小十郎の関係はとても似ていると思う。兄・義光と守棟の関係を間近で見ていた義姫が、政宗にも同じような家臣が必要と思って探してきたのが、最上にも縁がある片倉小十郎ではないかと思ってしまうくらい。
☆片倉景綱は伊達家における対最上の窓口であり、義姫とも連携して動いていた可能性が高いと思います。さらに2人は小田原参陣前の政宗毒殺未遂事件のねつ造疑惑にも関与しているのでは??
☆まちなかを仕事でウロウロしていたら、思いがけず山形城三の丸史跡の裏に出た。表からは何度も見ているが、裏をみるのは初めて。
☆三の丸の裏という表現はおかしいかな… でも撮影場所は歌懸稲荷神社の裏(北側)の月極駐車場。通りからも見えない奥まったところです。
☆先日職場にて、加藤清正公を大河ドラマに!の署名が回覧されました。もちろん署名させていただきました。
☆二代目の加藤忠廣が改易されたあと、出羽庄内の酒井家にお預けになり、丸岡城(現鶴岡市)に住んでいたことから、山形とは縁があるのです。
☆丸岡には加藤清正公墓碑があり、加藤清正公・忠廣公遺蹟顕彰会も活動されています。
  山形県鶴岡市観光連盟関連ページ
☆署名にはその顕彰会が作成した加藤家の歴史と丸岡を紹介するリーフレットが添えられていたんですが、加藤家が改易された理由については触れられておらず…
☆職場の人からは、なんでそんな有名な人の息子が、山形なんかに流されてきたんすか?なんか悪い事やったんすか?ってなことを聞かれる訳で、いやー、その清正の息子(忠廣)の息子がねーみたいな話をすることなった。(諸説あり)
☆久々に最上義光関連のイベントを発見!(12/4「最上義光英風史伝」)イベントのチラシの写真、顔が影になってなくてなかなか良いですね。夕方に撮った写真かな。
☆なぜ夕方かというと、この騎馬像は山形城から西にある長谷堂城に向けて出撃する様子を表現したもので、実際に長谷堂城の方を向いている。西日がささないと顔には日があたらないのですな。
☆慶長出羽合戦のとき、最上義光は騎馬像の建っている山形城二の丸ではなく、お城の南西の三の丸稲荷口に本陣を置いていた。現在の双葉公園と壽稲荷神社があるところ。さすが狐…とは言ってはいけない(爆)
☆最上義光の時代に、この稲荷口にあった神社は「歌懸稲荷神社」で、最上家が代々山形城の守り神としていたのだが、最上家改易後に入部してきた鳥居忠政によって三の丸の外(現在地の十日町)に移転させられた。この代わりに置いたのが壽稲荷神社とのこと。
☆歌懸稲荷神社の名前は、短冊に歌を書いて神に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋が付近にあったことに由来するという。ということは、この橋も稲荷口付近にあったってことになるな。
☆駒姫が生まれたとき、父・義光はお祝いの連歌会を催そうとしたが、山形には連歌のできる者がおらず、町人でもよいと探したが、それでも集まらず、結局、中止になってしまった。神社に歌を奉納する風習は、それを嘆いた義光が作り出したに違いない。
☆イベントタイトルの「最上義光英風史伝」は、幕末の儒学者・塩谷宕陰が作った漢詩にちなむものですな。この漢詩では、義光を「虎将」と呼び、最上四十八楯についても触れています。
  最上義光歴史館関連ページ
☆義光のニックネームの中では「出羽の驍将」が一番好きかな。でも時々、驍将≒梟雄的な良くない意味に間違えている人がいますね。
☆ある茶会をみていた富田一白は、「茶をもてなすにしても、小督の御方か、おいまの御方のお点前なら、ひときわ興趣があっただろうに」と語ったことがあるらしい。小督の御方とは、いま何かと話題のお江さまのことで、おいまの御方とは、駒姫のことだ。
☆富田一白は、織田信長、豊臣秀吉に使えた戦国武将で、様々な重要局面において秀吉の外交使節として活躍した人物。伊勢安濃津に3万石を与えられた。茶道に造詣が深かった。
☆今日は最上家関連の本を読んでました。義光の時代より前のことって、分かんないことだらけ。
☆最上九代の義定は、跡継ぎがいないまま20代後半で亡くなっているようだが、その跡を継いだのが、義定の弟の孫である義守(当時2歳)となっている。20代で孫がいたのか??
☆このころの最上家は伊達家から激しい介入を受けている。伊達家から男子が送り込まれなかったのが不思議なくらい。2歳の男の子を担ぎ上げるしかない状況だったんでしょうね。
☆本日から7日まで、山形市では花笠まつりが開催中。山形を代表するこの祭りですが、その前身は「義光祭」。昭和30年代の半ばまでは、最上義光公のお祭りをやってたんですね。\(´・ω・`)/
☆どんなお祭りだったかというと、市民総出で仮装行列をしていたらしく、それは楽しいお祭りだったそうな。それにしても、山形にコスプレの文化があったとは…
☆山形は藩主の入れ替わりが激しかったから、城下町というより商人の町という雰囲気が強いです。町の人たちは、山形の基礎を築いた最上義光を敬っていたからこそ「義光祭」を始めたんだろうなあ。
☆なんで「義光祭」をやめちゃったのかというと、もっと全国から観光客を呼べるようなお祭りをしなきゃだめだ!と当時のお偉い方がおっしゃたからだそうな。こりゃまた非常に商業的。
☆「義光祭」復活の話が以前あったけど、いまどうなってるんだろうか…
☆米沢では、政宗は館山城で生まれたと聞かされてきた人が多いみたい。米沢城は上杉の城だという思いが強いからなのかな。政宗が生まれて3年後に起きた「元亀の変」での館山城主は新田氏なので、館山城生まれは可能性が低いかなと思います。
☆伊達時代の米沢城は、現在と違って北口が大手門でした。なので、義姫(お東の方)が住んでいたであろう東館は、お城の正面にあった訳ではない。今のように大手門を東に変えたのは直江兼続です。
☆米沢城址・松が岬公園の上杉神社参道脇に「伊達政宗公生誕之地」の標柱が建っています。これを見て、政宗って米沢で生まれたの!?仙台じゃないの!?と驚いている観光客の方が結構います。
☆そうそう、政宗は羽州生まれ羽州育ちの立派な羽州人。ん?なんか、羽州人って宇宙人っぽいな。いやいや、間違っても奥州生まれじゃないんですよ〜
☆「伊達政宗公生誕之地」の標柱は、少し以前は「伊達政宗生誕之地」の標柱だった。なんで「公」がついてないんだ!というクレームが来たので、取り替えたらしい。
☆館山城が伊達家の本拠だったかどうかは、とても微妙。平時は米沢城、戦時は館山城と分けてたんでないのかなあ。
☆本格的な調査で何か発見があるといいんですが、館山城。山の中腹の堀跡には、今も水が流れているし、平らな馬場らしきところもあるし、敵方の間者を斬った跡なんてのもある。そして、主郭らしきところには、菊の御紋がついた石のほこらがポツンと… 謎だ。
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