出羽・最上の戦国関連情報(@endnob)
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大蔵村の清水城跡
☆大蔵村の清水城跡が県文化財に指定されました。最上川沿いにあって眺めがいいらしい。整備が進むといいな。
☆清水城は、最上義光の三男・清水義親の居城。戦国時代には今の最上郡(昔の村山郡)の中心地で、最上川舟運で栄えた。
☆最上義光の跡を継いだ家親(義光次男)は、その年の冬には清水城を攻めさせ、清水義親を自刃に追い込んでいる。家親と義親は同じ年の生まれ。
☆大坂冬の陣の直前の出来事であり、義親が大坂方に通じているとの理由に拠るものだが、どうだかなあ?
☆そもそも、義親が豊臣家の人質になっていて、豊臣秀頼とも交流があったとかほんとなんか?
☆義親は20歳そこそこで、長谷堂合戦には一軍の将として参戦してるし、続く上杉領庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに大将に任じられている。期待されてたんだね。
☆義親の母は天童夫人、義姉は最上義光の後室である清水夫人ですね。
☆清水城を攻めたのは、延沢遠江守光昌(満延の嫡男)と日野将監(定重?)の2将。最上家親は、大坂冬の陣で江戸城留守居役を任されたので江戸へ。
☆延沢光昌は、最上義光の長女・松尾姫を娶っているから、清水義親は義理の弟でもある。
☆日野将監については、いろいろ説があってはっきりしない。山形市の飯塚に館があったらしい。
☆清水城落城後にこの地域の統治を任されたのが、この日野将監。ただし、清水城には入らず、沼田城(新庄市)に居を構えた。
☆沼田城は、清水城に対して新城と呼ばれた。新城が新庄となり、以降、現代まで、この新庄が最上郡の中心都市になる。
☆一方の清水城は、政治の中心地でなくなるとともに、最上川舟運による経済の中心地も大石田に移ることになってしまう。
☆清水城跡があるのは大蔵村。この村名は義親の受領名である大蔵大輔に因んでつけられたもの。
2011.12.26:
endnob
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最上義光と夫人たち
☆最上義光には、正室の大崎夫人、側室の天童夫人、後室の清水夫人の3人の妻がいたことが知られていますが、個人的には、もう1人いた可能性があると思っているのですが…
☆寒河江の正覚寺の開基は、大崎夫人であり、晩年はそこで暮らしていたというのだが、寒河江に縁もゆかりも無い大崎夫人が、寒河江に大崎氏の菩提を弔うための寺を建立するだろうか?
☆この話によると、大崎夫人は駒姫の処刑後に後を追ったのではなく、その後も生きていたということになる。
☆しかも、義光と大崎夫人が不和になって、一時期、大崎夫人と義康と家親とで暮らしていたとか、義康を寒河江家の養子にすることが決まっていたが、反故にされたので寒河江を攻めた、とかという話もあるらしい。
☆寒河江もしくは白鳥からの夫人がいて、この夫人が寒河江・白鳥一族の菩提を弔うための寺を建立したというほうが筋が通るような気がするがなあ?
☆この寒河江夫人(仮)が二代藩主・家親の母親ではないのかなあ? 家親は、寒河江家親と名乗っていたんですよね。
☆嫡男だった義康亡きあと改易まで、最上家中はかなりごたごたする訳だけれど、それは家親を推す寒河江派と天童夫人の忘れ形見・清水義親を推す天童派の派閥争いではなかったかと。
☆そういえば、義光四男の山野辺義忠は、大石田の深堀の女性が母で、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ち、山辺に入部する際には「深堀三十六人衆」と称される家臣団を大石田から連れてきて、城の南側の「深堀」と名付けた地区に住まわせた、という説もありますね。
2011.12.11:
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最上家と白鳥家
☆白鳥長久の娘と最上義康の婚姻説は聞いたことがあるが、白鳥長久自身と最上義守の娘の婚姻説もあるらしい。いやーそれはどうだろうな。義姫が伊達家で、その姉妹が白鳥家? 無いと思うけどな。
☆そういえば、民間伝承では白鳥長久の妻は最上義光の娘になっていたりする。それで、夫を殺された娘が父を恨んでひっそりと暮らすというお涙ちょうだいの展開に…
☆最上家と白鳥家の婚姻関係についての資料を見つけました。8つも説があるとのこと。
白鳥十郎長久の謎
☆いろんな話のパターンがあって面白いですね。でも義光が悪者なのは共通事項。その話を流布するから、山形県民も義光を悪く受け取っちゃうんですよね。
☆白鳥は「しろとり」と読むのが正解。「しらとり」ではないです。なので漢字で「城取」とも書かれる。城を取るのが上手だったという話がある。
2011.12.11:
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遠藤家文書と最上家
☆遠藤家文書の中に最上家からのものは、氏家守棟から政宗宛ての1通のみ。最上伊達の間には義姫ホットラインがあったからなのか?
☆昨日の資料によると、「義姫置毒・小次郎誅殺をいう伊達政宗釈明消息は偽書である」という論文があるようですな。福島史学研究89 高橋明 2011年
2011.12.11:
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伊達輝宗の政治手腕
☆戦国期の南奥羽地域(現在の山形県・宮城県・福島県)には、同じ国に住んでいるという緩い連帯意識があったというのは興味深い。現代にも活かせると思う。
☆伊達輝宗は、天文の乱により乱れた南奥羽の秩序回復に努め、各大名・国衆が共存共栄できる体制構築にある程度成功したといえる。政宗の陰に隠れて目立たないが、この政治手腕はもっと評価されてよいと思う。
☆輝宗が作り上げたこの体制をぶち壊したのが政宗、というのが、昨日の講師の先生方の統一した見解のようです。
☆もし、粟之巣の変事で輝宗が横死しなければ、方針の違いから伊達家お得意の父子喧嘩が始まっていた可能性も考えられる。
☆従来の共存共栄を目指す考え方ではなく、領土拡張方針を掲げたのは、政宗よりもその伯父である最上義光の方が早い。
☆そのため、最上義守と義光親子は対立することとなり、共存共栄の考え方を同じくする輝宗は岳父である義守の味方につくわけです。
☆でも結局は、義光や政宗のような積極策の方が、関ヶ原後の結果をみれば正解だったのかもしれませんね。
2011.12.11:
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仙台藩重臣・遠藤基信
☆昨日買った資料本みてるけど、遠藤基信って、信長、秀吉、家康からも書状を受け取っていたんだな。
☆修験者の子である基信が、伊達輝宗の第一の側近となり、伊達家の外交を取り仕切るなんて、当時の身分社会ではかなりのレアケースだろう。それだけ、基信に才能があったということか。
☆しかも、これだけ取り立てられたのにも関わらず、譜代の重臣たちと揉め事が起きていない感じがあるのは不思議。
☆伊達政宗は、「遠藤山城は名誉の者なり、来年の事を考えるに、十に八つは外れぬなり…」と語ったとのことである。
☆連歌が上手なのは知っていたが、舞の名手でもあったことは初耳。蘆名盛隆が書状に「主役で一番演じていただき、一緒に演奏してみたい」と書いている。
2011.12.11:
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仙台藩重臣・遠藤家文書
☆新たに発見された仙台藩重臣・遠藤家文書の講演会を聴きに白石に来ております。
☆伊達輝宗の側近として活躍した遠藤山城守基信は、他家との外交を担当していたので、関係の文書がたくさん残っているということらしい。
☆うちは基信の弟・信秋の家系らしい。明治まで家系図があったらしいが、火事に遭い焼失。
☆自分の名前に「信」をつけたのは、通字だからか?と親に聞いたが、全面否定されたことがある…
☆父の実家は米沢なので、岩出山にはついていかず、米沢に残った一族なんですな。
☆遠藤山城守を略して、遠山と書いたりしてますね。米沢の地名の遠山に関係してんのかな。遠山には覚範寺跡があります。
☆今回、白鳥長久書状が発見されたため、山形から来ている人も多いみたい。
☆遠藤家文書のシンポジウム終了。長かったけども、非常に良かったです。
2011.12.10:
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最上八楯
☆天童氏を盟主にした国人領主連合「最上八楯」 北から順に、尾花沢、延沢、飯田、楯岡、長瀞、東根、六田、成生、天童 …あれ?9つある!
☆「最上八楯」は、羽州街道(旧国道13号線)に沿って、隙間無く並んでおります。延沢城はちょっとそれますけど。
☆その中で一番南に位置する、つまり、山形城に一番近いのが天童城になるわけだ。
☆天童城が落ちたら、次は自分達が狙われる!そうなったら大変なので、天童に味方しておこうってことなんだろうかな。
☆そんでもって、もし最上義光が自分たちの権益を保障してくれるなら、別にそれでもいいぜってことでもあるわけだ。
2011.11.23:
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本沢真直と片倉小十郎
☆最上義光歴史館のサイトでこんな系図を発見。この系図は白石城主片倉氏家臣の諸系譜をつなげたものとの説明がある。興味深いのは「本沢真直」が片倉小十郎景綱の母方のおじいちゃんだということ。
最上義光歴史館関連ページ
☆「本沢」という苗字は、伊達領の置賜郡ではなく、最上郡の家の苗字という印象が強い。長谷堂城のある地区が、山形市本沢地区だから、あの辺りの国人衆ではないかな。とすれば、最上家重臣の氏家家と縁戚であってもおかしくはない。
☆本沢真直が片倉家臣というのは間違いだと思う。最上家改易時に、本沢家が片倉家を頼り、家臣になったということならあり得る。
☆系図にでている飯田家は、最上八楯のひとつの飯田家ですな。片倉小十郎の「小十郎」は、外叔父(母方の叔父)の飯田小十郎の武勇にあやかって付けられたというから、飯田家と縁戚であっても不思議はない。
☆飯田小十郎は、慶長出羽合戦において畑谷城救援に赴いて戦死した飯田播磨守信兼のことなのか、その父のことなのかがはっきりしない。
☆本沢真直の娘(片倉小十郎のおば)が氏家守棟嫡男の光棟に嫁いだというのは世代的に合わないかなと。しかも、光棟は最上義光三女の竹姫を娶ったといわれている。(その後、光棟は十五里ヶ原の戦いで戦死) 氏家守棟と片倉喜多がほぼ同じ世代であることを考慮すると、本沢真直の娘が嫁いだのは氏家定直だろうか?
☆本沢真直の娘が氏家定直に嫁いだのだとすると、氏家守棟と片倉小十郎という最上・伊達の参謀が従兄弟同士の関係だった可能性が出てくるのだが…
☆氏家家と片倉小十郎の繋がりが分かると、最上義守が病気で一時重篤になった際、枕元に呼ばれた重臣が、最上は氏家守棟と志村光安、伊達は遠藤基信とまだ若い片倉小十郎だったことにも納得がいく。
☆政宗の乳母(教育係)に片倉喜多、近侍に片倉小十郎を配したのは、直接我が子の養育にたずさわれない義姫の意向があったのではないかと思う。
☆最上義光・氏家守棟の関係と、伊達政宗・片倉小十郎の関係はとても似ていると思う。兄・義光と守棟の関係を間近で見ていた義姫が、政宗にも同じような家臣が必要と思って探してきたのが、最上にも縁がある片倉小十郎ではないかと思ってしまうくらい。
☆片倉景綱は伊達家における対最上の窓口であり、義姫とも連携して動いていた可能性が高いと思います。さらに2人は小田原参陣前の政宗毒殺未遂事件のねつ造疑惑にも関与しているのでは??
2011.11.13:
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