endnobのノート
▼最上義康暗殺事件
☆地元には、最上義康は鶴岡から高野山に向かう途中(もしかしたら山形に向かう途中)で暗殺されたと伝わる話もあるのかな。だとすると、通説と移動の向きが逆になる。
六十里越街道の歴史
☆山形を追放され、高野山に向かう途中に暗殺されたとするには、あの場所は不自然。羽黒山に向かっていたとしても道が違うような気が。暗殺場所の街道(現国道112号線)を北に向かえば鶴岡に至る。
☆鶴岡にいた最上義康が呼び出されて山形に向かっていた途中で暗殺されたとするならば、あの場所で納得がいく。処分を言い渡す前であれば、義康の死を知った義光が狼狽するのも理解できる。
☆鶴岡と最上義康との繋がりは、鶴岡にも義康の菩提を弔う常念寺があること。山形には義光山常念寺という同名の寺があり、こちらも義康の菩提寺になっている。
☆そもそも通説になっている最上義康暗殺の話は、最上記などが出典だろうからあまり信用できない。2代藩主・最上家親の家督相続を正当化するように書いてあると思われる。
☆この最上義康暗殺事件で悪者に仕立てあげられたのが、里見越後・民部の父子ではないかと思う。民部の子である権兵衛は、義康の近習であったといい、里見父子は権兵衛に切腹を命じられたのが不服で出奔したという。
☆最上記にも最上義光と義康の仲を裂こうとしたのが里見父子だとは書かれていない。権兵衛が義康の近習だったことを考えれば、義康派の筆頭だったのかも。だから出奔せざるを得なくなったし、のちに家親により抹殺されてしまったのかもしれない。里見一族の粛正は、義光の遺言だったというのも怪しい。
☆最上義光の存命中に、里見越後・民部父子は連れ戻され、尾浦城の下吉忠に預けられていたという。義康暗殺の首謀者とするならば、なぜすぐに処断しなかったのか。義光の死後、遺言として処断したのが不自然に思える。
☆里見越後守・民部父子主従23名は、鶴岡市丸岡(旧櫛引町)にて切腹させられた。現在も丸岡の天澤寺(てんたくじ)に墓所がある。きちんと墓所が残っていることもあり、罪人扱いではないのかなと。斬首でなくて切腹だし。じつは最上義康暗殺地は、この丸岡のすぐ近く。意図的にそうしたものか。
☆最上記によると、鶴岡城は藤島城の新関因幡守が城代を務めていたが、その後、訳があって番手交代となり、小国摂津守と和田越中守が交代で城代を務めるようになったという。城代が交代制になった訳というのは、もしかして最上義康がらみのことなんだろうか。
2012.06.04:endnob
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