endnobのノート

▼天正最上の乱(4)

☆最上記では、柏木山合戦で敗北して上山まで撤退してきた伊達輝宗のところに、義姫が輿に乗ってやってきたことになっている。
☆義姫は輝宗にむかって「父義守が伊達と最上が仲良くするよう遺言したばかりなのに、これを破って兄弟どうしで争うとはあまりにひどい。陣を引かないのならまず私を刺し殺してください。」と言って、輝宗も陣を引くのだが、これは全くの創作。
☆義姫が輿で戦場に乗り付けたのは、天正最上の乱ではなく、天正16年の大崎合戦のとき。兄・最上義光の軍と息子・伊達政宗の軍がにらみ合う中山峠に居座ったんですな。こちらはホント。
☆義姫が中山峠に居座ったのは「戦をしたければ私を殺してからになさい」ということなのだが、その時の伊達の状況を考えると、体を張って最上軍の伊達領への侵攻を食い止めたと言った方が適切だと思います。
☆最上義光はそこをどくようにと義姫を説得しますが、聞き入れられず、結局、根負けして伊達と和議を結びます。義光は、今回は自分たち最上の方が有利な状況だったのに、妹のために和議を結んだとあれば、周囲から笑い者にされる、とこぼしたらしいです。
☆この和議により、北からの圧力が無くなった伊達政宗は、会津攻略に力をいれます。そして、翌年の天正17年、摺上原の戦いにて蘆名氏を滅ぼし、会津を手中に収めることになります。
☆奥羽永慶軍記によると、摺上原の戦いには最上から伊達政宗に「小国隼人・安食大和守百余騎」が援軍に行っているみたいです。喧嘩しながらも、ここぞというときにはちゃんと援軍を送ってあげる優しい義光伯父さん。
☆天正最上の乱において、上山城攻略に失敗した伊達輝宗は、その後いったん米沢に兵を引きます。これは、義姫がやってきたからではなく、会津から蘆名盛興死去を伝える使者がやってきたため。蘆名の後継者問題に対応するため、米沢に帰ったんですね。
2012.02.19:endnob

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