endnobのノート
▼天正最上の乱(2)
☆最上記に登場する話は、最上義守ではなく、義光の伯母婿という上山城主の「上山満兼」という人物が、義光に不満を持ち、伊達輝宗に持ちかけて、共に義光を攻めるというもの。しかし、この上山満兼という人物、そもそも実在したかどうか不明とか。
☆最上記では、伊達輝宗は「柏木山合戦」において義光方に大敗を喫し、上山城まで撤退することになっているのだが、この「柏木山合戦」は存在しないらしい。つまり、後世の作り話であるとか。
☆天正2年伊達輝宗日記によると、4月に伊達領内全域に陣ぶれを出し、5月には上山城を総攻撃したものの失敗し、伊達領と最上領の境にある楢下(上山市)まで撤退したとある。このときの上山城主は、上山満兼ではなく、里見民部。
☆里見民部は、氏家守棟の調略により主君の上山満兼を殺して代わりに城主になったと最上記には書かれているのだが、上山満兼は実在したか分からないし、伊達輝宗日記によると、そもそも初めから上山城主だった可能性もある。
☆それにしても、里見民部はかなりの戦上手とみえる。天正最上の乱では伊達軍の総攻撃から上山城を守り抜き、慶長出羽合戦では、上杉軍を奇襲により撃退している。どちらも手勢は300〜500程度だったとか。
☆伊達輝宗は日記で里見民部のことを「さと民」と略して書いているみたいです。さとみんw
☆里見民部は、主君を殺して城主になった、上杉家に内応しようとしたが父親を山形に人質にとられたのでしなかった、最上義康の廃嫡事件に関与して最上家を出奔した、最上義光が里見一族は粛正せよと遺言した(そのため実際に粛正された)、など黒い噂が絶えない人物なのだが…
☆天正最上の乱や慶長出羽合戦における義光への貢献度を考えると、実際はそんなに腹黒い人物ではなかったのかも。家臣団の権力闘争の過程で悪者にされたのかな? しかし、いまのところ実名が分からないのが不思議。「名前を言ってはいけないあの人」な扱いなのかと思っちゃいます。さとみんw
2012.02.19:endnob
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