endnobのノート
▼最上義光は山形義光だった!?
☆今日の最上義光講演会によると、義光は山形殿と呼ばれ、自身も山形氏を称していたとのこと。最上を名乗るようになるのは、庄内地方と由利郡を領土に加えて57万石になってから。史料では慶長6年8月以降に最上氏の呼び名が出てくるそうです。
☆上杉年譜の中に、慶長出羽合戦開戦前の8月に義光から直江兼続宛に送られた書状がある。内容は、嫡男の義康を人質に差し上げるし、1万人召し連れてどこまでもご用にたちます、という無条件降伏にも等しいもの。でも署名が「最上出羽守義光」になっているとか。つまり、後から作られた偽物らしいwww
☆上杉家御年譜って、上杉家文書の一部として国宝に指定されているんですよね。その中に偽書が混じってるの??
☆将来的には、最上義光ではなくて山形義光で信長の野望に登場したりしてw そして、名前を変えるイベントも追加でお願いします!
☆最上義光が山形氏を称していたことを示す象徴的な事物は、長谷堂合戦でもぶん回していた鉄製の指揮棒。「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻まれていますね。
最上義光歴史館関連ページ
2012.02.12:endnob
⇒HOME
(C)
powered by samidare