endnobのノート

▼最上義光と夫人たち

☆最上義光には、正室の大崎夫人、側室の天童夫人、後室の清水夫人の3人の妻がいたことが知られていますが、個人的には、もう1人いた可能性があると思っているのですが…
☆寒河江の正覚寺の開基は、大崎夫人であり、晩年はそこで暮らしていたというのだが、寒河江に縁もゆかりも無い大崎夫人が、寒河江に大崎氏の菩提を弔うための寺を建立するだろうか?
☆この話によると、大崎夫人は駒姫の処刑後に後を追ったのではなく、その後も生きていたということになる。
☆しかも、義光と大崎夫人が不和になって、一時期、大崎夫人と義康と家親とで暮らしていたとか、義康を寒河江家の養子にすることが決まっていたが、反故にされたので寒河江を攻めた、とかという話もあるらしい。
☆寒河江もしくは白鳥からの夫人がいて、この夫人が寒河江・白鳥一族の菩提を弔うための寺を建立したというほうが筋が通るような気がするがなあ?
☆この寒河江夫人(仮)が二代藩主・家親の母親ではないのかなあ? 家親は、寒河江家親と名乗っていたんですよね。
☆嫡男だった義康亡きあと改易まで、最上家中はかなりごたごたする訳だけれど、それは家親を推す寒河江派と天童夫人の忘れ形見・清水義親を推す天童派の派閥争いではなかったかと。
☆そういえば、義光四男の山野辺義忠は、大石田の深堀の女性が母で、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ち、山辺に入部する際には「深堀三十六人衆」と称される家臣団を大石田から連れてきて、城の南側の「深堀」と名付けた地区に住まわせた、という説もありますね。

2011.12.11:endnob

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