endnobのノート

▼最上義光騎馬像と歌懸稲荷神社

☆久々に最上義光関連のイベントを発見!(12/4「最上義光英風史伝」)イベントのチラシの写真、顔が影になってなくてなかなか良いですね。夕方に撮った写真かな。
☆なぜ夕方かというと、この騎馬像は山形城から西にある長谷堂城に向けて出撃する様子を表現したもので、実際に長谷堂城の方を向いている。西日がささないと顔には日があたらないのですな。
☆慶長出羽合戦のとき、最上義光は騎馬像の建っている山形城二の丸ではなく、お城の南西の三の丸稲荷口に本陣を置いていた。現在の双葉公園と壽稲荷神社があるところ。さすが狐…とは言ってはいけない(爆)
☆最上義光の時代に、この稲荷口にあった神社は「歌懸稲荷神社」で、最上家が代々山形城の守り神としていたのだが、最上家改易後に入部してきた鳥居忠政によって三の丸の外(現在地の十日町)に移転させられた。この代わりに置いたのが壽稲荷神社とのこと。
☆歌懸稲荷神社の名前は、短冊に歌を書いて神に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋が付近にあったことに由来するという。ということは、この橋も稲荷口付近にあったってことになるな。
☆駒姫が生まれたとき、父・義光はお祝いの連歌会を催そうとしたが、山形には連歌のできる者がおらず、町人でもよいと探したが、それでも集まらず、結局、中止になってしまった。神社に歌を奉納する風習は、それを嘆いた義光が作り出したに違いない。
☆イベントタイトルの「最上義光英風史伝」は、幕末の儒学者・塩谷宕陰が作った漢詩にちなむものですな。この漢詩では、義光を「虎将」と呼び、最上四十八楯についても触れています。
  最上義光歴史館関連ページ
☆義光のニックネームの中では「出羽の驍将」が一番好きかな。でも時々、驍将≒梟雄的な良くない意味に間違えている人がいますね。
画像 ( )
2011.10.23:endnob

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