英のノート

英のノート
ログイン

「一九七七年ごろに,若者の意識に大きな変容がみられた」という研究論文を読んだ。「軽いノリがうけて,『まじめ』への攻撃が顕著になった」というのである。ちょうどその頃,テレビでは漫才ブームが起き,「コマネチ!」に代表される「ノリ」を真似する同級生が人気者になった。それに連動するようにコント番組が数多く作られ,ゴロンボ警部・しらけ鳥・ナンデスカマンなど,ドリフターズとはまったく違う「軽いノリ」が流行した。アニメの世界でも,スポ根アニメは下火となり,ヤッターマンなど「軽いノリ」が徐々に存在感を増してきた時代である。「まじめ」君はクラスでも委員長の絶対条件ではなくなり始め,ついには「何マジメぶってんなや」とつつかれるような空気である。
 一方,この研究論文は,もう一つの変化をとらえて論じている。一九七七年以降の傾向として,若者を対象に毎年行われている「自分の性格をどう思うか」という調査結果に変化が生じたというのである。それ以後その傾向は変わらずに現在に至っているのであるが,ある年の調査を見ると,ダントツのトップ3が「1位元気,2位よく話す,3位明るい」である。これに対し,同年のアメリカは「1位親しみやすい,2位親切,3位友情に厚い」,韓国が「1位友情に厚い,2位親しみやすい,3位明るい」である。「親しみやすい」「親切」「友情に厚い」は相手の立場に立って客観的に自分を評価する観点に立っており,「元気」「よく話す」「明るい」が自分の視点から自分を評価する視点であることから,論文は「日本の若者の『自己本位の自己像』が際だっている」と分析する。
 前年の一九七六年は,ロッキード事件が発覚した年である。高度経済成長のドン,豊かさの牽引役だった田中角栄に対する国民の否定観,政治に対する不信感が噴き出すきっかけになった出来事である。「豊かさ」と「汚いお金」の共存。「権威」と「犯罪」の一体化。それまでのやんちゃな小学生の中には,将来の夢に「総理大臣」を口にする子どもが決して稀ではなかったが,日本の頂点は「正義」のヒーローではなく,「汚」く「不真面目」な「悪者」と化したのである。はたして,その後の日本の若者はどこを目指して努力すれば良いのか。若者たちは,総理大臣になることよりも,クラスの人気者になることを望むようになった。「まじめ」に努力を重ねるよりも,「楽しい今」を大切にするようになった。こうして友だちは,切磋琢磨し合う「良きライバル」・「仲間」から,「今」を共有する「仲良し」になった。
 研究論文はさらに続ける。「『まじめ』の崩壊は先進的産業社会が共有する病理である」と。「産業社会が育てた豊かさ」が人々を「自己規律」から「現実享受」へと向かわせ,「産業社会そのものが自己崩壊の傾向を内包してしまう」というのである。
 私が読んだ研究論文は,『日本通史 第21巻』(岩波書店)に掲載されたものである。政治や経済の抱える問題・課題が何も無いところから突如として発生したものではなく,これまでの歴史の流れの延長線上にあるように,現在の日本の若者が「まじめ」に見られることにストレスを感じ,不真面目でルーズな服装を好み,自己本位の髪型をし,相手の評価よりも「頑張っている自分」に対する自己評価が優先する傾向にあることは,歴史の産物ということである。
 かく言う私も,一九七七年は小学五年生,まさに漫才ブームに夢中になり,「オレたちひょうきん族」で育った世代である。しかし私は大学時代,今も決して忘れることのできない教えを受けた。親しく可愛がっていただいた教授の何気ない会話に私が「軽いノリ」で応じたとき,教授は急に笑顔が消え,「軽いノリ」は「お前に自信が無いからだ」と真顔でつぶやいたのである。私は心が凍りつくような思いだった。それを受け流す「軽いノリ」など,みじめにしか思えなかった。自分に,他人に,物事に,世の中に,「まじめ」に向き合えないのは,「自信の無い」人間なのだと,はっきり言われた。
 歴史は人の手で創るものである。しかし,それは未来を創るということであり,言い換えれば今はまだ目の前に存在していない,目に見えないものを創るということである。夢を語る人,可能性を追求できる人,自分の理想像を描ける人,それはすべて見えないものに取り組む人である。そういう人が未来を創る。一方で,歴史に押し流される人,夢のかなわない人,現実に振り回される人は,目の前の現実しか見ていない。現実の世の中は,いったん出来上がり固まってしまうと,そう簡単には変えられない。目の前の日常しか見えない人は,それがどんなにつらい現実であっても,それを変えるにはたいていは手遅れである。
 目の前の現実ではないものを見る取り組みは,「学問」である。私が専攻する日本史は,目の前の「今」ではない過去の世の中を見て,“温故知新”という歴史を学ぶ意義にならって未来に取り組む学問である。肉眼では見えない小さなもの,遠くのもの,外側からは見えない内側を見るのも「学問」である。他人が何を言おうとしているのかを読み取るのも「学問」である。目では見えないハーモニーを創り出すのも,今存在しない物を創作するのも「学問」である。但し,目の前に並べられたものをひたすら暗記するのは「学問」ではない。
 九里学園の教育は「学問」であるべきだと私は思う。教育の,生徒一人一人の,今はまだ目に見えていない理想を追いかけ,創り出す取り組みである。決して,目の前の現実に慣らすための訓練所に終わってはならない。そのために,「まじめ」な努力が「軽いノリ」・「自己本位」よりも大切だとわかる若者の園になってほしいと思う。なぜならば,一人一人が自信を持って人生を歩み出してほしいからである。

2010.12.04:ei01:count(1,060):[メモ/コンテンツ]
copyright ei01
powered by samidare
community line
http://tukiyama.jp///
powered by samidare