『花巻ええじゃない会』 公式ブログ
▼遠足のしおりA
2009-09-30 00:24:22 | 100キロウォーク
約40名のドMの方々から申込みありましたありがとうございます。
私も歩きたいのですが、今回は慣れないサポート頑張ります
さて、今回から100キロウォークで寄り道する所を案内しようかなと。
休憩地点からなんとなく予想出来てる方も多いですか?
まずは「高村山荘」
詩人や彫刻家として活躍していた高村光太郎(1883〜1956・享年73歳)が賢治の縁を頼って東京から花巻に疎開。
晩年の7年間(1945年・62歳〜1952年・69歳)を過ごした山小屋。
亡き妻・智恵子(1938年没)を思いながら、偉人がこんな田舎で書画制作や執筆に没頭してたのかと感じられます。
高村光太郎の一口メモ↓
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賢治とのつながりは
1925年(42歳) 賢治(29歳)が上京して光太郎のアトリエを訪問。
1936年(53歳) 宮沢賢治詩碑の「雨ニモマケズ」の後半「野原ノ松ノ林ノ・・・・」詩揮毫。
1944年(61歳) 花巻共立病院(現総合花巻病院)院長で賢治の主治医だった佐藤隆房らが花巻への疎開を勧めに上京した際、賢治詩碑の誤脱字が有るのを知らされ追刻を快諾。
1945年(62歳) 4月、空襲によりアトリエ炎上。5月花巻町宮澤政次郎(賢治父)家に疎開。その後11月大田村山口の小屋に移る。
1946年(63歳) 賢治詩碑の追刻(4箇所)。
らしいです。(詳しくないのですが、なんとなくこんな感じで)
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敷地内を歩き、その後高村山荘を見てからスケート場ファミマに折り返して貰います。
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敷地内はこんな感じ。階段とか有りますが始まったばかりなんでまだ余裕?
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現在は二重に建物で覆われている小屋。その間を歩きます。
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光太郎が当時住んでいた小屋。手前は「光」の文字が刻まれたトイレ。
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1953年(昭和28年・70歳)に十和田湖に立てられた「乙女の像」のデッサン。
ちなみに田沢湖「たつこ像」の制作は岩手出身で昭和33年に高村光太郎賞を受けた舟越保武。
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高村光太郎と佐藤隆房。
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光太郎と賢治両親、宮澤政次郎とイチ。
今回のブログは100キロ実行委員長のドM佐藤でした。
2010.06.06:はなまっきー
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