令和3年度 上杉文華館「上杉定勝」

  • 令和3年度 上杉文華館「上杉定勝」

 本年度の上杉文華館は「上杉定勝」と題して、国宝「上杉家文書」に見える上杉定勝関連資料を中心に約1ヶ月ごとに展示替えしながら、その他の関連資料を含めて展示します。
 上杉定勝は、慶長9年(1604)5月5日、米沢藩初代藩主・上杉景勝の長男として米沢城で生まれました。母は側室の公卿・四辻公遠の娘でした。元和9年(1623)に景勝が死去すると、定勝は2代藩主に就任しました。定勝の藩政では直臣による合議的な政治体制のもとで、米沢城内の整備や家臣団の再編成、キリシタンの取締りの強化、藩内の総検地などが行われました。定勝の藩政は、これまで行われてきた直江勢力による専制的な執政体制からの大きな転換期と位置付けられており、その後の米沢藩政の基礎となりました。定勝は、正保2年(1645)9月10日に米沢城で42年の生涯を閉じます。
 また、定勝は文芸面にも優れており、漢詩や和歌(連歌)などを多く残しています。『上杉家御年譜』には、飛鳥井家・勧修寺家・高倉家などの公家との交流が多く確認できるほか、近侍の諸士に中国古典の内容を講義する記載も見られます。定勝はまさに文武両道の藩主だったと言えます。

 

【展示期間】3月30日(火)~4月27日(火)

《親と子①~景勝の教育~》

 関ヶ原合戦後、江戸幕府は大名との主従関係を確認させるために参勤交代を推し進めます。これによって、大名たちは一年おきに国元と江戸を往来するほか、妻子を江戸屋敷に居住させることが強いられました。上杉家の場合、慶長8年(1603)に徳川家康から江戸屋敷を拝領し、その年から上杉家の参勤交代が始まりました。『上杉家御年譜』によると、米沢城で生まれた定勝は慶長11年5月に江戸へ移住したことが確認できます(数え年で当時3歳)。定勝は、この時点から景勝が亡くなる元和9年(1623)3月までの期間を江戸で過ごしました。
 今回の期間テーマでは、幼少の定勝に宛てられた景勝の書状に注目し、定勝に対して施された教育について考えていきます。父・景勝が息子・定勝に対して送った書状には、景勝の親心をうかがわせる記述が散見されます。子どもの成長を見守る景勝の姿は、戦国時代を生き抜いた勇ましいイメージとは対照的で、親としての温和なイメージを想起させます。

 

▼ コレクショントーク

 日時:4月4日(日)  10:00、15:00

 場所:常設展示室 上杉文華館

 ※入館料が必要です。

 

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

【お問い合わせ】

米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2021.03.30:denkoku:[博物館情報]