令和7年度 上杉文華館「謙信・景勝に手紙を出す」①

  • 令和7年度 上杉文華館「謙信・景勝に手紙を出す」①

 令和7年度の上杉文華館は「謙信・景勝に手紙を書く」と題して、国宝「上杉家文書」などを展示します。

 戦国時代、書状は一定の規則に則って書かれました。このような規則を書札礼といい、差出人と受取人の関係が反映されていました。それをまとめた書札礼書 も作られました。そこには差出者の社会的地位に応じた規範が示されています。その適用は厳密であり、ゆえに実際の書状の書き方から両者の関係を知ることも できます。東国の大名間では、差出は実名に花押、宛名は名字に殿の尊称という表記が、原則的に対等な関係を示していました。特別な内容や礼状などでは、宛名に「謹上」のような上所、差出の実名に官途や姓などを加えて厚礼とし、より丁寧な気持ちを表すこともありました。

 永禄4年(1561)、謙信(長尾景虎)は上杉憲政から名跡と関東管領の地位を譲られ、上杉氏を名乗ったことはよく知られています。これによって謙信、景勝 はその地位に応じた書状を受け取ることになりました。宛名には、「上杉殿」や「上杉弾正少弼殿」などの名字を冠したもの、「山内殿」や「越府」、「春日山」 などの地名を記すもの、また本人ではなく、報告を求めて側近に宛てたものなどがみられます。これらは差出人の立場によって選ばれますが、その基準をみていくことで、謙信や景勝の地位、諸大名家の権力構造、東国社会の変容などがみえてくると思われます。

2025年度はこの解明に取り組んでいきます。

 

 

第1回《「上杉殿」と「上杉弾正少弼殿」》

 【展示期間】3月25日(火)~4月22日(火)

  展示目録はこちら

 第1回目は、「上杉殿」と「上杉弾正少弼殿」の宛名、側近に宛てた書状の違いに着目して、その理由を駿河の戦国大名、今川氏真が謙信に宛てた書状に探ります。氏真は、謙信の宿敵武田信玄・北条氏政らと同盟関係にありましたが、信玄との関係に不信感を持ち、永禄10年、秘かに謙信と交渉を始めました。

 そこから 元亀元年(1570)まで確認できる交渉で、氏真からの書状の宛先は「上杉殿」→「上杉弾正少弼殿」→「上杉殿」→側近宛と変化しました。それは東国社会に大きな変動をもたらした事件と関わったものでした。

 政治情勢の変化に伴う氏真と謙信の関係の展開を具体的に明らかにするとともに、書札礼の特徴にも言及していきます。

 

▼ コレクショントーク

 日時:4月6日(日)  14:00

 場所:常設展示室 上杉文華館

 ※入館料が必要です。

 

令和7年度上杉文華館展示スケジュールはこちら

 

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

【お問い合わせ】

米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2025.03.25:denkoku:[博物館情報]

3月の体験学習室

  • 3月の体験学習室

3月の体験学習室についてお知らせいたします。

季節企画は「桃の節句」(2/28(金)~3/26(水))です。江戸時代のおひなさまの展示は3月2日(日)まで。お早めにお越しください。
造形体験は「スパッタリング」(2/28(金)~3/26(水))です。

スパッタリングとは、絵具を付けたブラシを金網にこすりつけ、細かいしぶきを飛ばす技法です。型抜きされた紙を画用紙の上にのせてからスパッタリングすると、紙が乗っている部分がマスキングされて白く残ります。
しぶきが飛ぶので、服を汚さないように気を付けながら体験してくださいね。

 

※ご利用の際は感染予防にご協力ください。
※発熱や、風邪症状のある方はご利用をお控えください。
※5人以上のグループでのご利用は、事前にご相談ください。
※定員は20名です。混雑時はお待ちいただくこともございます。

それではご来館を心よりお待ちしております。
お問い合わせは 米沢市上杉博物館0238-26-8001までどうぞ。

2025.02.27:denkoku:[体験学習室]

コレクション展「新収蔵品展 米沢・上杉の歴史と文化」展示紹介②

  • コレクション展「新収蔵品展 米沢・上杉の歴史と文化」展示紹介②

⑦刀剣手入用具(栗林政克所用)一式

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幕末に活躍した米沢藩士(上級)・栗林政克の刀剣手入れ道具です。

「大小小道具箱」と墨書された木箱には、打粉や目釘抜き小槌などの道具類が納められています。

実戦が起こりうる状況の中で、自身の刀剣を手入れするために普段使いしていたものと考えられます。

 

皆様のご来館を心よりお待ちしております!

【お問い合わせ】

 米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2025.02.27:denkoku:[博物館情報]

令和6年度 上杉文華館「本能寺の変と北陸情勢」⑫

  • 令和6年度 上杉文華館「本能寺の変と北陸情勢」⑫

 令和6年度の上杉文華館では、16世紀の長尾上杉氏と北陸地域(主に越中・能登)の歴史的関係について、国宝「上杉家文書」を中心に通時的に紹介します。

 越後と隣接する北陸地域への侵攻は、上杉氏の領国(領土)形成の上で重要であり、北陸の諸勢力をいかに統合するかがカギとなりました。ただし、上杉謙信の北陸侵攻は、武田信玄や北条氏康といった関東甲信勢力のほか、一向一揆や織田信長などとの関係・動向に規定される側面があり、謙信を取り巻く当時の政治状況に配慮したなかで行われました。

 謙信の北陸侵攻は、関東侵攻(17回)に次いで多く行われており、その数は11回に及びます。小田原北条氏・甲斐武田氏との関係変化により、信濃・関東の攻略が足踏みする中で、北陸地域は上杉氏の領国化が叶った地であり、謙信の晩年になって越中と能登が上杉氏の版図に組み込まれています。

 北陸地域における同盟者の裏切り、敵対勢力との和睦・合力など、目まぐるしく変わる情勢に、長尾上杉氏がどのように対応していったのか、一進一退の攻防を繰り返した長尾上杉氏の北陸侵攻を主軸に据えて、その内容を深めていきます。

 

第12回「本能寺の変と北陸情勢」

 【展示期間】2月26日(水)~3月23日(日)

  展示目録はこちら

 

 天正10年(1582)になると、越中では富山城(富山県富山市)・魚津城(同魚津市)を中心に、織田と上杉の激しい攻防が繰り広げられます(資料1~3参照)。また、上杉景勝と同盟関係にあった武田勝頼は、木曽義昌の逆心などで織田勢の侵攻を許した結果自害し、武田氏は滅亡しました(3月11日)。信長に対抗する同盟主を失った景勝は、越中(柴田勝家)・信州(森長可)・上野(滝川一益)、下越(新発田重家)から包囲され、窮地に陥りました。景勝は、5月上旬に越中へ出馬しますが、森長可が越後へ侵入すると、急いで帰還し春日山の防備に徹せざるを得ない状況でした。その結果、天神山城(同魚津市、5月26日)、魚津城(6月3日)が相次いで落城し、景勝は存亡の危機に見舞われました。しかし、本能寺の変で信長が横死したことにより事態は一変し、景勝はこの窮地を脱しました。織田勢が北陸を撤退するなか、景勝は富山城まで勢力を挽回しますが、信長の旧臣佐々成政と対立するなど、北陸情勢は依然として不安定な状況でした(資料4)。

 今回の展示では、本能寺の変前後の北陸情勢を取り上げ、当該期における上杉景勝の動向を紹介します。

 

 

▼ コレクショントーク

 日時:3月2日(日)  14:00

 場所:常設展示室 上杉文華館

 ※入館料が必要です。

 

 

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。

 

【お問い合わせ】

米沢市上杉博物館  0238-26-8001

2025.02.26:denkoku:[博物館情報]

コレクション展「新収蔵品展 米沢・上杉の歴史と文化」展示紹介

  • コレクション展「新収蔵品展 米沢・上杉の歴史と文化」展示紹介

 

①紺紙金字観音経(妙法蓮華経)

なお、謙信自身がこの経典を使って妙法蓮華経の読誦を行ったという記録は確認できませんが、上杉家ゆかりの資料として伝来しました。※画像サイズを縮小して掲載しています。

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上杉謙信手沢と伝わる経典で、1行17字の配分で丁寧に書かれています。

折りの傷みなどから日常的に使い込まれたことが想像されます。

本資料の作成は享禄5年10月ですが、同年は7月29日に天文に改元されるため、改元後も享禄年号を使用した東国での作成が推測されます。

なお、謙信自身がこの経典を使って妙法蓮華経の読誦を行ったという記録は確認できませんが、上杉家ゆかりの資料として伝来しました。

 

②上杉景勝書状(塚田家文書)

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上杉景勝が蘆名盛隆の家臣に送ったと考えられる文書(新出資料)です。

織田信長との攻防において、景勝は越中・信州・下越の三方向に包囲される窮地に立たされていました。

本資料には、この状況で自身の生死を名誉あるものと捉える景勝の心境が示されています。

 

③黒呉絽地水玉模様竹雀紋付き陣羽織

陣羽織(背面) *当館寄託陣羽織(正面) *当館寄託

 

上杉家当主が着用したと考えられる陣羽織です。

背中に上杉家の家紋「竹雀紋」の刺繍があり、18世紀頃の作と見られます。

陣羽織は戦場の防寒着として着られましたが、戦のない江戸時代には制作機会が減り、また一代限りであるため、残ることが少ない貴重な逸品です。

 

④上杉景勝感状(塚田家文書、水無瀬家伝来資料)

塚田家文書

水無瀬家伝来資料

 

上杉景勝が御館の乱で戦功をあげた家臣に送った感状です。

本資料は江戸時代の写しで存在が知られていますが、資料収集に際してその原本が発見されました。

本展覧会では、後代の写しで知られていたものの原本資料を複数展示していますので、あわせてご観覧ください。

 

⑤上杉定勝書状

本文5~6行目に「庭ノ林檎(りんご)」と書かれています。

 

上杉定勝が家臣・安田与親に送った文書です。

米沢城内に実っていたりんごが、江戸にいる定勝に届けられたことへの感謝を伝えています。

このりんごは、定勝が藩主になる前、米沢にいた父 上杉景勝から贈られており、父子を繋ぐ思い出の一品だったのかもしれません。

本文5~6行目に「庭ノ林檎(りんご)」と書かれています。

 

 

⑥上杉鷹山書状(平田栞収集資料)

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上杉鷹山が儒学者 樺島石梁に送った文書です。

鷹山は、学問の師 細井平洲の七回忌に際し、遺稿集「嚶鳴館遺稿」を作成するため、樺島に校正を依頼しました。

樺島は平洲の高弟として、鷹山も絶大な信頼を寄せており、同書刊行に力を注ぐ鷹山の姿がうかがえます。

 

 

皆様のご来館を心よりお待ちしております!

【お問い合わせ】

 米沢市上杉博物館  0238-26-8001

 

2025.02.24:denkoku:[博物館情報]