令和6年度の上杉文華館では、16世紀の長尾上杉氏と北陸地域(主に越中・能登)の歴史的関係について、国宝「上杉家文書」を中心に通時的に紹介します。
越後と隣接する北陸地域への侵攻は、上杉氏の領国(領土)形成の上で重要であり、北陸の諸勢力をいかに統合するかがカギとなりました。ただし、上杉謙信の北陸侵攻は、武田信玄や北条氏康といった関東甲信勢力のほか、一向一揆や織田信長などとの関係・動向に規定される側面があり、謙信を取り巻く当時の政治状況に配慮したなかで行われました。
謙信の北陸侵攻は、関東侵攻(17回)に次いで多く行われており、その数は11回に及びます。小田原北条氏・甲斐武田氏との関係変化により、信濃・関東の攻略が足踏みする中で、北陸地域は上杉氏の領国化が叶った地であり、謙信の晩年になって越中と能登が上杉氏の版図に組み込まれています。
北陸地域における同盟者の裏切り、敵対勢力との和睦・合力など、目まぐるしく変わる情勢に、長尾上杉氏がどのように対応していったのか、一進一退の攻防を繰り返した長尾上杉氏の北陸侵攻を主軸に据えて、その内容を深めていきます。
第11回「上杉景勝の台頭」
【展示期間】1月28日(火)~2月24日(月祝)
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天正6年(1578)3月13日、上杉謙信は「虫気(脳卒中)」によって亡くなりました(享年49)。この後、謙信の後継をめぐり、同8年6月まで上杉景勝と上杉景虎の間で戦乱が繰り広げられました(御館の乱)。その一方、北陸方面では織田信長との対立が続いていました。信長は謙信の死没を好機と捉え、謙信の重臣・河田長親に帰属を求めるなど、織田勢力の影響が徐々に越中方面へ及びました。その後、景勝は加賀・越中の諸勢力からの要請を受けて、同8年10月に越中へ出馬しました(同年末に越後へ帰還)。
天正9年になると、景勝は同盟関係(甲越同盟)にあった甲斐の戦国大名・武田勝頼と連携して越中出馬を図りますが(同年正月5日付上杉景勝条書)、越中国衆が織田方に寝返るなど織田勢力に押される状況が続きました。また、同時期に揚北衆の新発田重家が織田方に与するなど、織田・上杉の対立は徐々に本格化します。
今回の展示では、謙信の後を継いだ上杉景勝が動乱する越中情勢にどう対処したのか、信長との対立を踏まえながらその様相を紹介します。
▼ コレクショントーク
日時:2月2日(日) 14:00
場所:常設展示室 上杉文華館
※入館料が必要です。
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【お問い合わせ】
米沢市上杉博物館 0238-26-8001