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日本人が知っておくべき「この国根幹の重大な歴史」

 日本人が知っておくべき「この国根幹の重大な歴史」(加治将一、出口 汪)と言うタイトルの本を読んだので紹介します。

1.日本開国の裏には驚愕の事実があった

 坂本龍馬は内ゲバで中岡慎太郎に斬り殺された。大政奉還の龍馬を武力倒幕派の中岡慎太郎が斬った。後日、龍馬暗殺の手柄を立てた田中光顕は宮内大臣に出世したことからも分かる。

 イギリスのアーネストサトウとグラバーとパークスは、幕府転覆を模索し日本人エージェントとして坂本龍馬を利用した。秘密結社フリーメイソンのロッジが密談場所として使われた。イギリスは中国にアヘンを売ったが、日本では銃や大砲など兵器と船が儲かった。龍馬は大政奉還で武力革命に断固反対したので、グラバーに見捨てられ暗殺された。

 宣教師のフルベッキは、イギリスのグラバーを切り離しアメリカにシフトを変えさせた。明治維新後、そのまま行けばイギリスの属国になりかねない所を、岩倉使節団を提案し、明治4年から2年間、政府中枢をアメリカに派遣した。英仏の思惑は日本の植民地化にあったが、かろうじて難を逃れた。

2.フルベッキ写真の謎と明治天皇すり替え説を検証する

 フルベッキ写真(46人撮り)は、ある意味で血判状のような役割を果たした。写真にはのちの睦仁親王(孝明天皇の息子)に取って代わり明治天皇になったとの説がある、大室寅之祐とみなされた人物が写っている。

 徳川家茂は、第2次長州征伐で京都・大阪に来たときに突然死んでしまい、毒殺された以外に考えられない。孝明天皇も半年後に死に、薩長にとって都合の悪い2人のトップが相次いで亡くなった。孝明天皇は徹底した外国嫌いで頑強な攘夷論者。孝明天皇の暗殺(ヒ素中毒)が真実とすると、その実子・睦仁親王をそのまま天皇にするのは不自然である。

 和宮は天皇の妹で将軍の妻、副葬品はなく左手首がない遺体であった(増上寺)。和宮は無血開城の時に裏で動き、旧幕府勢力にはシンボル的な存在だった。生きて明治天皇に会えば別人と分かってしまう。途中の箱根で殺害された可能性がある。孝明天皇の子、睦仁親王も箱根で殺され阿弥陀寺に葬られたのではないか。和宮の戒名が「静寛院殿二品親王」となっており、和宮と睦仁親王の2人分を入れ込んだ。阿弥陀寺は、睦仁親王と和宮の2人の遺体を引き取った。

 睦仁親王と明治天皇では体格があまりに違う。睦仁はひ弱なのに、明治天皇は相撲を取っていた。睦仁は右利きなのに、明治天皇は左利き。明治天皇は、すり替わった自分こそ正統だと公言したかった。皇居のそばに楠木正成像を作ったり、南朝の皇族や武将を祭神とした南朝神社をつくり、明治天皇は死ぬ1年前に南朝こそが正統だと聖断を下した。

 明治神宮に行くと、明治天皇の妻を皇太后と書いてある。明治天皇の妻・一条美子さんは、先帝・睦仁親王の妻であり、本来は皇后と呼ばれるべき。孝明天皇の崩御1866年12月から明治天皇の即位1868年8月まで1年以上かかっているのも異常である。この日本史の闇は明らかになれば社会問題にもなる。昭和・平成・令和天皇のルーツは何?

 有栖川宮(孝明天皇の弟)は、次の天皇にするとの三条・岩倉の甘言でさんざん利用された挙句、ウツになって自殺した。

 鳥羽伏見の戦いを始め、騒擾状態のどさくさで御所に突入し、すり替える環境を整えるべく、今までの女官や側近を全部解任している。吉田松陰の功績は、南朝天皇の子孫・大室寅之祐を長州が囲って天下をとるシナリオを考えたことにある。

 大室寅之祐は山口県田布施町の出身、長州閥が幅を利かせたのは明治天皇を握っていたから。孝明天皇の暗殺事件は、犯人が岩倉具視と伊藤博文であることを突き止めた。岸信介元首相も「明治になって天皇家が変わっている」と明言している。孝明天皇の祭神として玉鉾神社が正式に登記が認められたのは1954年であり、死後87年間許可が下りなかった。明治維新は、下級武士による政権奪取であると言える。

 明治天皇のすり替え、にわかに信じがたいことだが、最近になって、このような書籍がたくさん発行されている。山形市立図書館にも数多く並んでいる。この国の本当の歴史を知ることは、この国の将来の在り方を考える上で大切なことと思われる。

2021.01.07:dai:コメント(0):[学習]

コロナ禍

 コロナ禍について、京都大の上久保Pの見解を紹介します。

(12/22付けメッセージ)

 過剰過ぎるマスコミの煽り。日本の死亡者138万人、3,800人/日(cf;コロナ40人/日)インフルエンザは、毎年1,000万人(cf;コロナ3ヶ月で45万人)。第2波はPCR検査数の増加によるもの。厚労省が死因を問わず新型コロナにしているのも原因。日本の集団免疫が廃れている(終生免疫ではない)。1月頃に終息するだろう。

(医療緊急事態宣言)

 日本の人口当たりの死者数は欧米の1/20~1/30。指定感染症の分類2類→5類(夏頃にしておくべきだった)。陽性者>感染者>発症者。医療崩壊は、新型コロナが少数の病院に集中しているため。第3波は集団免疫が廃れ、感染が防げてない。集団免疫の維持強化、ブーストが必要。インフルエンザは202人(3ヶ月)のみ、ウィルス干渉が起きている。集団免疫が廃れても、免疫記憶があり重症化を防いでいる。欧米外国人と日本人とを比較すると14倍多い。東アジア土着のウィルスである。

(12/31付けメッセージ)

 日本の状況は、集団免疫(T細胞免疫)(cf;欧米はADE(抗体依存性感染状況))日本のK型免疫は11月に廃れる。日本版CDCが必要。集団免疫の維持強化のために、再感染、ブースト(ウィルス暴露)が必要。医療崩壊は一部の病院のみ。第3波では陽性者が増えている。免疫記憶のIgA抗体が発症を抑えている。2021年2月頃まで増加、3~4月ころ収束(前回より弱気の見通し)。このパンデミックの特徴はウィルス突起部の変異。免疫で収束、2010年にも発生していた。新型コロナ肺炎は、高齢者や基礎疾患のある人に起きる風邪である。

 対策としては、Go to再開(経済とのバランス)。インフルエンザとの同時感染なし。(ウィルス干渉のため)指定感染症は2類分類(1類扱い運用)→5類に。陽性者>感染者>発症者である。PCR検査のCT値40~45→32へ(擬陽性の減少のため)。後遺症は、風邪は万病のもと、他と有意差なし。ワクチンの拙速は危険。集団免疫はワクチン投与と同等。遺伝子の改変によるもので、10年の検証必要。高齢者や基礎疾患のある人は、外出を奨励(免疫力の強化)。勇気を持って普通の生活を。

 コロナ禍が収束後にこの説の正否が証明されるだろうが、データが揃っており説得力があると考えられる(以前の記事を参照)。

2021.01.03:dai:コメント(0):[学習]

長寿法

 「長寿法」(帯津良一著、海竜社)と言う本について紹介します。

1.冷やすな

①冷えは万病のもとと知る。②食べ物・お酒・気功・運動・お風呂・日向ぼっこ・お灸など、自分の取り入れやすい方法で体に熱を補給する。③夏場の冷房や冷たい食事で体を冷やさない。④忙しさ、寂しさ、ストレス、ショックで心を冷やさない。笑い、ときめきで心を温め、自然治癒力をあげる。⑤暖房で自分を甘やかさない。ときには厳しい自然環境に身を置くことで免疫力アップ。

2.食べろ、食べるな

①食べ過ぎで体に負担をかけない。胃腸を休ませてあげるために、空腹のタイミングを上手につくる。②お腹を満たすだけの食事にしない。ひと口ずつ噛みしめて心にときめきを。③満腹状態ですぐに寝ない。夜食は控えることが望ましい。食後はひと休みをしたあとに軽い運動を。④「体にいいもの」「減塩」「休肝日」に過度に縛られない。食事は自分が楽しめ、喜びを感じられることを重視する。⑤食事をいただけることに感謝する。いつまでも食事を楽しめるように歯の健康を保つ意識を。

3.眠れ、眠るな

①眠り過ぎることはかえって体をだるくする。自分に合ったほどよい時間の睡眠を。②寒々しく一人で寝ない。パートナーやペット、抱き枕と一緒に。一人のときにはすてきな人や楽しいことを思い描きながら眠る。③眠れない、寝起きが悪いときには内観の法を。必要に応じて、適切な範囲でお酒や薬の力を借りてもよい。④眠れないことは良くないこと、という観念を捨ててみる。日中、一生懸命働くことで夜は自然とスーッと眠りにつける。⑤今日眠りから目覚めたことは実は当たり前のことではない。新しい一日が始まることを初々しい気持ちで喜んでみる。

4.ためるな

①食べること・入れることとともに、出すことも大切。食物繊維、呼吸法で腸を刺激し、体を軽くする。②お金や情報をためこみすぎない。仕事もためずにコツコツと。性欲も年を理由に慎もうとせず、認めてあげる。③心をときめかせることで気が勢いよく巡り、いい循環ができる。ストレスもまずは「よく来た」と歓迎してみる。④健康診断の結果で一喜一憂しない。数字はあくまでも参考程度に。⑤死についてだれかと語り合ったり、本を読んでみる。死後の世界をイメージし、楽しみにするぐらいの気持ちをもつ

5.怠るな

①生老病死と真剣に向き合うことが人生を充実させる。②好奇心をなくさない。興味のあることをやり続ける。チャレンジ精神をもって人生のラストシーンを充実させる。③自分が死んだあとの心配をやめる。執着は捨てて、今やりたいことに徹底的に力を注ぐ。④身のまわりの生活の中にときめきを探してみる。当たり前に思うことの中に小さな恋や奇跡を見出す努力をする。⑤今日を地球最後の日だと思って生きる。自分自身をより良く生きることが、地球をより良くすることにつながると思って生きる。

 80歳を過ぎた現役の医者の養生訓であり、人生を生き抜く知恵が詰まっていると思う。少しでも、これを参考にして年を重ねて行きたいものである。

2020.12.29:dai:コメント(0):[学習]

明治維新の正体  徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ

 「明治維新の正体 徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ」(鈴木荘一著、毎日ワンズ発行)と言う本を読んで抄録をまとめたので紹介します。「薩長史観の正体」と合わせて読むと理解が深まると思います。

0.はじめに

 戊辰戦役と言う痛ましい流血は、西郷隆盛ら武力倒幕派が、イギリス型公議政体への移行を念願した徳川慶喜の大政奉還の意義を理解しなかったため生じた。歴史は単に戦勝者の作り話にすぎない。

1.維新の先駆者徳川慶喜

 明治41年、徳川慶喜は大政奉還の功績により、明治天皇から勲1等旭日大綬章を授与された。

2.日米和親条約を容認した徳川斉昭

 老中阿部正弘は、徳川斉昭を幕政参与に任じ、全員参加型の民主的挙国一致体制を確立し、開国やむなしの合意を積み上げた。1853年、日露交渉は国境確定、開港、貿易開始、犯罪人処分など日露和親条約の草案を作った。徳川斉昭は米ロで談合があり、アメリカと対抗するためロシアと組むのは危険と言い、アメリカと真正面に向き合って交渉した。このような歴史を学んでおれば、1945年、ソ連を通じて和平を提議し、ソ連を仲介とする和平交渉を開始して無残な結果に終わることも無かったろう。

 水戸学の会沢正志斎は、徳川幕藩体制では日本は統一国家とは言えない。皇室を戴いて国家統合の象徴とし、3百諸藩が団結して外夷と対峙しようと考えた。1854年、下田・函館開港、薪水・食料供給などを定めた日米和親条約を調印し、アメリカに開国した。

 安政の改革として、海防に取り組んだ。人材の登用を始め、スクリュー式の軍艦2隻をオランダに発注した。幕府は財政の総力を挙げて海軍を整備した。アメリカ東洋艦隊の約7割に達した。

3.通商条約の違勅調印

 井伊直弼は、積極的開国論者の堀田正睦を首席老中に推挙したことは、幕府の外交方針が開国を選択していたことを意味する。貿易開始はやむを得ないが、朝廷に奏上し、朝廷から勅許を得るべしとなった。孝明天皇は西洋人を日本に近づけることを極端に嫌った。(朝廷の攘夷論)

 交渉において、ハリスの不機嫌もあり、勅許無しに調印する許可を井伊直弼は与えた。幕府は、英明の誉れ高い慶喜の擁立を図る「一橋派」、伝統的な幕府専制主義を主張する「南紀派」(家茂を擁立、リーダーは井伊直弼)とに分かれた。

4.吹き荒れる攘夷の嵐

 戊午の密勅は、幕末抗争・流血の最大原因になる。水戸藩の激派の行動に対し、井伊直弼は「安政の大獄」を始めたが、水戸浪士によって桜田門外の変で暗殺された。

 朝廷と幕府の対立は、和宮降縁によって公武合体が成立した。尊王倒幕を唱えた西郷や大久保に真に尊王の心があったのか?江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟が立役者のように語られるが、和宮の努力で徳川慶喜の助命が得られたからこそ、江戸城無血開城が実現した。

 遣米使節団の派遣と咸臨丸の太平洋横断、福沢諭吉の渡米。アメリカ南北戦争と対馬事件で、頼りはアメリカからイギリスへ。ロンドン覚書、イギリスは列強のリーダーはイギリスと思い知らせた。

 急進的攘夷派の思想的リーダー真木和泉のテロリズム、天誅の猛威、テロの嵐の中、京都守護職に松平容保を充てた。長州の外国船砲撃。公武合体が朝廷と幕府の内戦を回避した。八・一八政変。孝明天皇は攘夷論者であったが、公武合体を支持し、現実政治は幕府に任せる考えだった。三条実美ら攘夷派公家は京都を追われ長州に下った。攘夷派の水戸天狗党の乱。蛤御門の変で長州勢は総崩れした。

5.慶喜が条約勅許を得る

 通商条約は違勅調印が最大の問題だった。薩摩藩の大名行列で生麦事件発生、賠償金11万ポンド支払い。薩英戦争の原因に。四国艦隊の下関砲撃事件。長州藩は降伏し、賠償金300万ドル。高杉晋作は幕府の命令で攘夷行動をしたとの言い逃れで幕府の監督責任となった。

 第1次長州征伐の撤退。孝明天皇が通商条約の勅許を下したのちは、長州藩・薩摩藩の攘夷派テロリストによる異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃は止んだ。

6.イギリスが薩長を支援

 イギリス武器商人グラバーは、南北戦争で余剰になった最新鋭の小銃を薩長に売却し、イギリスが長州藩に心を寄せていることは、周知の事実だった。長州藩の不始末により下関戦争の賠償金を幕府から召し上げ、長州に信用供与していた。グラバーの親薩長・反幕府の立場はハッキリしていた。イギリスの武器→長州の米→薩摩の密貿易の金が三角貿易となっていた。

 坂本竜馬は亀山社中を結成し、薩摩藩から毎月3両2分の手当を受け、幕府探索方の眼をくらませながら、密貿易の輸送やブローカーをした。公然と通商条約(コンプライアンス)違反をした人物を幕末の英雄のように言うのは間違いである。日本人同士が殺し合う内戦で使われる高性能小銃の密貿易で高利潤を得た坂本竜馬は決して英雄とは言えない。

 密輸の三角貿易は薩長同盟へと結びつく。グラバー商会は亀山社中を下請代理店として薩摩藩を介在して長州藩との武器密貿易の違法行為を行い、イギリスも黙認した。グラバーは明治41年、勲二等旭日賞を受賞している。アーネスト・サトウは薩長の代弁者として、反幕府の立場で内政干渉した。

 第二次長州征伐では、西郷はイギリスの軍事力を背景に、幕府を武力で討伐する決心をする。大村益次郎の散兵戦により、戦争と言うよりほとんど狩猟に近かった。

7、徳川慶喜の登場

 慶喜が正式に将軍職に就任した直後、最大の理解者である孝明天皇が35歳で崩御された。第二次長州征伐が長州藩勝利、幕府敗北で終わると、フランスがイギリスへの対抗心を露わにし、親幕府の姿勢を鮮明にした。フランスは絹織物工業の原料生糸を日本から輸入しようとし、イギリスは武器を輸出しようとした。

 慶喜はフランス型幕府陸軍を創設。海軍力に加え陸軍力を強化、旗本軍団全員を銃隊に組み換えた。慶応3年末には、歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。兵庫開港の勅許を獲得。長州藩への寛大な処分の勅許は、陸軍力を誇示して、戦わずして政治的勝利を収めた。

8.大政奉還の思想

 幕府開成所教授・西周が慶喜のため起草した「議題草案」の思想は、わが国の新政治体制はイギリス議会主義を手本とし、皇室をイギリス王室に、大君をイギリス首相になぞらえたもの。大政奉還上表文は、五箇条の御誓文の原型になった。慶喜は将軍職に就いた時点で大政奉還を意識し始めていた。

 島津久光は、パークスやグラバーと組んだ大久保利通の口車に乗り、徳川幕府に代わる島津幕府を夢見て、薩摩兵団という強力な武力を背景に徳川慶喜と敵対した結果、島津久光の私兵だった薩摩兵児は西郷隆盛に簒奪されてしまい、維新の元勲として中央政界へ進出したのは西郷隆盛と大久保利通だった。

 討幕の密勅は、偽勅ともいえる代物だった。薩摩への密勅は三条実愛が、長州へは中御門経之が書き、これを企てた岩倉具視のほか誰も知らない。(三条実愛の告白)まさに、公文書偽造であった。

 アーネスト・サトウは桂小五郎に、「日本のような後進国には暴力革命がふさわしい」とけしかけ、桂は坂本竜馬に「幕府が大政奉還により公権力の名分を失ったのちに、鉄砲芝居で幕府を倒す」と吹き込んだ。サトウは「一外交官が見た明治維新」の著作があるが、「一外交官が干渉した明治維新」と改題すべき、陰のシナリオライターだった。

 西郷隆盛は、「話し合いや和平路線を模索する有力大名がいればこれを刺殺し、江戸において放火・略奪・強盗・殺人などの非合法活動を行って幕府を挑発し、幕府と戦端を開いて、戦意の乏しい幕府を武力討伐して、「刀槍の時代」に代わる「大砲の時代」を確立しよう」と武闘派らしい決心をした。

 小御所会議では、山内容堂は岩倉具視を「幼沖の天子を擁して、権力を私しようとするもの」と糾弾した。当時、岩倉具視は孝明天皇を毒殺したと噂されていたが、西郷隆盛は「短刀一本あれば片付くこと」と言い放ち、山内容堂刺殺を黙示して脅迫し、実質上の武力討幕方針を決めさせた。

 大政奉還により武力討幕の大義名分を失った西郷隆盛は、相楽総三に「江戸市中を擾乱し、幕府を挑発せよ」と密命を与えた。江戸町民は「薩摩御用盗」と恐れられた。薩摩藩邸焼き討ち事件が起きると、開戦の口実が出来たと喜んだ。

 鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗(玉松操が密造)が薩長陣営に翻った。慶喜は陣頭指揮を宣言したが、突如、江戸にもどり周囲の反対を押し切って恭順に踏み切った。その後の相楽総三は西郷隆盛から殺され、「敬天愛人」を唱える西郷の真の姿は陰謀と冷血である。

9.万民平等の実現

 鳥羽伏見の戦いを、「わが国の滅亡の始まりだった」との見解も少なくない。薩長軍の補給を絶てば勝てた。その後、長州人脈が日本陸軍を牛耳ったが、補給軽視は長州藩の伝統に遠因がある。

 会津藩の神保修理は、薩長側に錦の御旗が翻った以上、恭順の意を示すべきと慶喜に薦めた。尊王思想を生んだ水戸藩は、三百諸侯の中で特異な存在で副将軍を自認していた。水戸藩第2代藩主徳川光圀は、「大日本史」を編纂した。「万民平等の思想」としての水戸尊王論は、南朝正統論を唱え、私利私権・自己保身に執着しないよう戒めた。

 鳥羽伏見の戦いは、幕府が簡単に負ける戦いではなかったが、そうなれば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けていた。

 幕末のポピュリズムは、奥羽越戊辰戦争を、新政権の支配者となった官軍が東北軍を完膚無きまでに叩きのめし、その戦利品を配下への食録として与え、東国を日本近代化のスプリング・ボード(踏み台)として搾取と隷属の対象にした。こうした名分なき暴力を「いじめ」と言うが、西郷隆盛が仕組んだ奥羽越戊辰戦争はまさにそうだった。

 大政奉還をもたらす水戸学は、徳川光圀が提唱し、皇室と言う実際上は政治的に無力な権威を上に戴くことによって、私的権力としての徳川政権に公的国家論としての息吹きを吹き込んだ。

 NHKの大河ドラマや司馬遼太郎の小説等で描かれる明治維新を歴史教育で学んできたが、実態はかなり違っていると言うのが読後感である。薩長人脈が権力を握り、先の戦争で破滅に追い込んだとも言える。東北人は健気にも良く耐え忍んだと感心する。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、山県有朋など人物評価を事実に基づき改めるべきと感じる。上野公園の西郷隆盛像や庄内の南洲神社も撤去すべきと思う。

2020.12.24:dai:コメント(0):[学習]

薩長史観の正体

 近現代史の学び直しのため、「薩長史観の正体」(武田鏡村著)と言う本を読んだので紹介する。

(幕末動乱編)

 明治維新150年、御用学者の嘘で固められた薩長史観を信じてきた。薩長は討幕の密勅を偽造したが、徳川慶喜の大政奉還により平和的に権力移譲(慶応維新)された。幕府は、薩摩や長州に比べてはるかに開明的で開国による近代化を進めていた。

 吉田松陰は、激情に駆られて変節して、暴力革命を礼賛するテロの扇動家だった。松陰の教えは、数々の暗殺や暴発などのテロ行為を正当化し、のちの日本を侵略戦争に駆り立てた。西郷隆盛は、僧侶を殺し江戸を混乱させ、同調者を見殺しにした無定見な武闘派の策謀家だった。下関戦争と薩英戦争は、薩長攘夷の無謀さを示し日本を危機に晒した。尊王攘夷は孝明天皇の真意であったが、天皇を玉と見立てて幕府と奪い合った。長州出身の陸軍・山形有朋は天皇への絶対服従を説いて軍人勅諭に繋がった。奇兵隊は民衆の武装を無制限に認めたことは画期的だが、その無秩序ぶりは戊辰戦争で発揮され、会津などの民衆を苦しめた。山形有朋の作った陸軍は、吉田松陰ゆずりの精神論だけが先走る体質は帝国陸軍へと引継がれた。

 長州は、池田屋に集まり京都を火の海にし、御所を襲い孝明天皇を拉致する暴挙を計画した。禁門(はまぐり御門)の変は、長州が孝明天皇に刃を向けたものである。薩長の志士で共通するのは女好きであり、倒幕のシンボルである錦の御旗は薩長の偽物であった。西郷隆盛は、勝海舟から国内で争うべきでなく、幕府に代わる雄藩諸侯による合議制の連合政権を作る構想を知り驚いた。坂本竜馬も勝と同じ考えだった。高杉晋作は、下関戦争の賠償金を言葉巧みに幕府に請求するよう働いた。

 第1次長州征伐では、長州は幕府軍にひれ伏した。薩長同盟を仲介した坂本竜馬の背後には、英国グラバーがおり謀略によって内戦を意図していた。第二次長州征伐は長州も幕府軍もにらみ合いでこう着状態が続いたが、将軍家茂の死(毒殺?)と孝明天皇の死(毒殺)で幕府軍は撤兵した。

(慶応維新)

 孝明天皇は、薩摩と岩倉具視の陰謀によって毒殺(ヒ素中毒)された。(英国公使館アーネスト・サトウの後日談あり)薩長史観ではこの秘密は禁忌とされる。薩摩が目指す武力討幕と土佐が目指す大政奉還の間には大きな亀裂があった。討幕の密勅は偽造されたもので、文章として明らかに証明されている。まったく出鱈目な宣旨によって、薩長による幕府討幕の正当性が認められた。

 大政奉還は慶応維新というべき歴史的な偉業であり、世界に誇るべき無血革命であった。坂本竜馬は、大政奉還による新国家を推進したために暗殺された。

 鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争は、官軍と朝敵軍の偽りの大義を名目とした戦いだが、官軍の財源を確保して経済力を奪取するための国内戦争だった。岩倉と山内容堂の議論が紛糾した時に、西郷隆盛の「短刀1本で済む」との恫喝で議論は終結した。「ええじゃないか」は薩長が仕組んだもので、騒乱を起こすことにより進軍を偽装するものだった。

(戊辰戦争)

 江戸の騒擾は幕府側を逆上させようとした挑発行為であり、軍資金を強奪するため戦端を開くための口実作りであった。上野一帯では彰義隊を殲滅するために、官軍を称する討伐軍が一方的に戦いを仕掛けて多くの人を殺害した。死体は腐敗するまで晒され、江戸市民の見せしめになった。人肉食もあったと言われる。錦の御旗は薩長の偽造であり、大政奉還されているにも関わらず、戦いで権力を勝ち取ることを鮮明にした。

 鳥羽・伏見の戦いは、5千の薩長軍に幕府軍は1万5千と優勢だったが、錦の御旗に騙された徳川慶喜が朝敵になることを避けるため幕府軍は退いた。恭順の意を示した徳川慶喜への追討は、武力で日本を制したい薩長の口実だった。江戸城を開城させる条件は、反薩長の諸藩を見殺しにするものだった。 外国勢力は戊辰戦争を内戦と捉えて局外中立を保つよう本国から指示されており、植民地化を意図してなかった。幕臣の小栗忠順は日本の近代化の基礎を作った先駆者であり、暴虐な薩長の体質を見抜いていた。松平容保は幕末の混乱を沈静化し、孝明天皇を守り抜いて奮闘した正義の藩主である。

 長州の世良修蔵の卑劣で貪婪な挙動によって奥羽列藩同盟が成立し、無用な戦争が起こされた。長岡藩家老の河井継之助は、征討軍の理不尽な態度のため、やむを得ず挙兵に踏み切った。北越戊辰戦争では、河井継之助の指揮で同盟軍は3ヶ月にもわたり奮戦し、山県有朋を裸で敗走させた。会津は、負傷者の殺害、人肉食、強奪、強姦など新政府軍は徹底的に会津を蹂躙した。これは日本帝国陸軍が日中戦争などで行った蛮行と類似している。白川以北は一山百文と、薩長は東北を蔑視し続けた。長岡藩のほかにも庄内藩は官軍を寄せつけず薩摩兵と互角に戦った。

 東北には当時の世界情勢に対する理解が足りなかったのか、その後の東北の開発の遅れも薩長史観によれば合点がいく。日本史教科書で習った明治維新は、薩摩長州の極悪非道を知ることによって、私たちの近現代史を正しく見つめ直すことが大切と考える。

 上野公園の西郷隆盛の銅像や庄内地方の南洲神社など、真実の歴史の理解のもと存続の可否が判断されるべきである。また、公共放送のNHKが大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」などで日本人に誤った歴史観を繰り返し擦り込んでいること、小説家の司馬遼太郎の幕末維新期の諸小説「竜馬がゆく」なども改めて再評価が必要と感じる。

 

2020.12.05:dai:コメント(0):[学習]