年だからでなく年がいもなく
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がん哲学外来の話―2
がん研究者として「がん哲学」を志し、場の設定(外来)をした著者の考えの一部を、本より抜粋して紹介してみる
△「自分」という存在の尊さを確信すると、人間は強くなれる
健康を失い、仕事を失い、お金を失い、人からの信用を失い・・・何もかも失って何もできなくなったときに、それでも確固たる自分の存在の尊さを感じることができたとしたら ー それこそ、その人にとって非常にスピリチュアルな体験であるはずです
自分という存在そのものの尊さを確信できた人間ほど強いものはありません。それは失うことも、奪われることもないものだからです
人間としての悩みを抱き、ひとりの静寂な時間に耐えながら、深く深く考え抜いてやるしか方法がない。少なくとも私にはそうとしか言えません
だから時間がかかるのです。30分間の『がん哲学外来』ではとても無理です
でも種をお渡しすることはできます。深く考えるための「種」、考えを深めてくための「種」です。『がん哲学外来』はその種を処方できる外来でありたいのです
▲「自分」という存在の尊さを確信するためにどうすればいいのか・・・・患者は悩むでしょう
身近なところには「がん哲学外来」のようなものはない
自ら哲学して自分でたどり着かなければいけない境地か
△「配慮」は嬉しいが、「遠慮」は寂しい
患者さんが抱えているのは人間としての悩みですから、できるだけ普遍的な言葉を選びます。健康であるとか病気であるとか、そういうことは関係ありません。だからそれは、遠慮しない言葉でもあります。そして実際、そういう言葉のほうが患者さんの心にヒットするようなのです。おかしな言い方かもしれませんが、外来を通して私が感じたのは、患者さんにとって不足しているのは「遠慮しない言葉」なのではないかということです
配慮は嬉しいけれど遠慮は寂しい。ですから『がん哲学外来』では、私は意識的に目の前の人を「がん患者として意識しないようにしているのです
▲「遠慮しない言葉」を投げかけてくれる場所と人を求めていくか、患者同士で作り上げるか
△「目下の急務」がわかると腹が据わる
病気そのものでの悩みはむしろ少ない。多くは人間としての悩みであり、苦しさです。再発や転移によって希望を見失った失望感、人間関係のストレス、自分が社会の中で無用に感じる孤独感、あるいは電池が切れたような無気力になってしまう人もいる。
どれも人間としての当然の悩みです。しかしまた、それぞれの「反応の仕方」でもあるのです。患者さんによって、その反応の仕方によって問題を悪化させていると感じる場合もあります。あるいは家族や周囲の「反応の仕方」が患者を追い詰め、悩みを深くしていることもあります
私が1歩踏み込むのは、そんな場合です。病気そのものをコントロールできなくても、自分の反応は自分でコントロールできるものだからです。であれば、優先順位はそこにおくべきです
▲自分の反応をコントロールすることは確かにできそうである
患者自身も哲学することが必要
2009.03.22:
choro
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