年だからでなく年がいもなく
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『がん宣告「余命19カ月」の記録』
戸塚洋二(物理学者)立花隆との対談 (文藝春秋8月号)
戸塚洋二氏はニュートリノの研究でんーベル賞に最も近い物理学者といわれて
いましたが、がんで8月に亡くなられました
戸塚洋二氏はがんになってからブログにがんの記録だけでなく、人生観、世界
観、宗教観など記入しておりました
立花氏との対談とブログの記録のなかから抜粋してみます
△「一日一日を充実してお過ごし下さい」といわれるのが、一番困るんです
よ。そんなことできるわけない。言われると、何か新しいことをやらなきゃい
けないと思ってしまう。でも、どうしようもないんですね。むしろ、「いまま
で通りでいてください」と言ってもらったほうが楽なんですけどね
△死を前にした正岡子規が、「(自分は悟りをこれまで誤解していたが)悟り
と言うことは如何なる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違い
で、悟りと言うことは如何なる場合にも平気で生きていることであった」
平気な顔をして死ぬのもすごいことですが、「平気で生きている」というの
もすごい。でも結局それしかないのかなと思います
△「魂の不死を説く宗教に対して、ニーチェは『魂の不死などというものはな
い。肉体の死と共に魂も死ぬ。それによって人間の生命は無に帰す。しかし、
やがて、すべてが永遠に回帰するのだ』と説いていた」ニーチェは、人生が全
く同じように繰り返すと説いていますよね
△一方、古代仏教は輪廻転生を説いていますが、解脱というのは何かといった
ら、おそらく輪廻転生から外れることですよね
△この点について、以前、ある仏教学者の先生に伺ったんですよ。解脱した
後、どういう状況になるかと。そしたら、全くゼロの世界、無の世界というの
が解脱した状態だと言うんです。この辺がニーチェの思想とは全然違うんで
す。われわれ、自然科学者の世界では、輪廻転生はそもそもありえないとして
います。ただ、解脱したあとの世界は無だというのが興味深い。宇宙というの
は生まれたら、必ず終わりがあるんです。で、終わりになってどうなるかとい
えば、完全な無の世界。時空もなくなるわけですから。そういう意味では、二
−チェより仏教のほうが自然科学に近い感じがします
△仏陀が一生懸命考えたことが、我々、自然科学者が一生懸命勉強しているマ
ルチバース論(たった一つしかない宇宙をユニバースというのに対して、多宇
宙をマルチバースという)と非常に似ているということにすごく安心感を覚え
る。あれだけの宗教家というか思想家が考えたことも、結局我々が思いついた
ことと似ていた。だったら、そんなにガタガタ言う必要はない。このまま死ん
でいけばいいじゃないかということは感じますね
△ギリシャ時代の有名な哲学者の言葉に、「人は死を恐れる必要が全くない。
死を恐れている間は、まだ死はきていない。そして、死が本当にやってきたと
きには、あなたはもういない。だからあなたが死と出会うことは永遠にない」
▲一日一日を充実して・・・というのはなにも新しいことをやる必要はないの
ではないか。今までどうりのことについての見方、考え方を変えて新しい充実
感を覚えるようにしていけばいいのでは
▲「平気で生きている」ということはすごいことです。ひっかかりました
▲「死の恐怖」というものに自分なりに対応していこうとする時、自分のより
どころとするものが何なのか・・・・何もないことに気がつきました
凡夫の悲しさで難しいことは無理
「ガタガタ言う必要はない。このまま死んでいけばいいじゃないか」で行きた
いものですが・・・
2008.10.26:
choro
:count(1,632):[
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▼コメントはこちら 勉強会でも飲み会でもいいですから、皆さんでお話あいしてみたいですね 面白い意見が出てきそうです
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