choro note

▼わたしが死について語るなら

山折哲雄 ポプラ社

著者はむずかしいテーマを分かりやすく、かつ独特の視点から論じているユニークな
宗教学者
この本も著者らしい視点から死に関していろいろな切り口から随筆風に書いているので読みやすくわかりやすい

「はじめに」で
戦後半世紀以上自身の死の問題を正面から見つめることを怠ってきたが、時代が死の問題をめぐって大きな転換期にさしかかっていることを指摘している

第1章 私が実感した「死」
自身の死と向き合った体験を述べている
「死ぬ」ということに対する恐怖心を最初に味わった太平洋戦争や、「他者」の死ではない、「第二人称の死」を目の当たりにした祖父、義母、父、母、兄の死について触れている

第2章 日本人の心の底に流れる「無常感」
今の葬儀は故人のにこやかなスナップに代表されるように、死者を送る儀式になっておらず、別れの儀式とも違うのではないか
「人間はいちど死んだら、肉体は生ごみになってしまう」で自分が犬の死骸を見たときの思いを述べ、若者のインドへの旅を勧める

「人はひとりで死ぬ運命」ではきちんと死について教えない限り、本当の「生きる力」は身につかないと述べ
「死は敗北なのでしょうか」では長生きだけが目指すべき人生モデルだとは思えない
死を敗北ととらえないできちんと「死に支度」」のことを考えるべきであると述べている

第3章 文学に描かれた「死」
死について学び深く考えることが可能なのかどうかは文学の中にその回答が潜んでいるということで、自殺した中学生の遺書を使用して、子供がもっている死生観を紹介している
文学者としては宮沢賢治と金子みすずを取り上げ、その生き方や死生観に触れ、詩の紹介
などをしている

第4章  子供たちを苦しめる「平等」と「個性」
教育の現場で「個性が大事だ」と沢山言われてきたはずなのに、実際には無個性な子供たちが大量発生している
外国から借り物の価値観だった「個性」はまだ借り物のままで血や肉とはなっていない
ヨーロッパ産の「個性」に代わるいい日本の言葉「ひとり」と言い換え、読み換えたとき、豊かな広がりのある世界がよみがえってきた
今はひとり恐怖の時代であるがひとりの感覚を養うことが必要である
そのためには、姿勢を正し、呼吸を整え、そして黙想すること

社会は決して「平等」なものではないと理解する
国をあげて「個性」「個性」と言うよりもそのまえにまず「ひとり」で立つことを目指す
尾崎放哉の「咳をしてもひとり」の句や親鸞が教える「ひとり」について紹介し、比較地獄、嫉妬地獄からの脱却を勧めている

第5章 日本は「無常」の風が吹いていた
日本人が長い歴史を通じて育んできた人生観や、とりわけ「死生観」にたどりつくために古典を読むことを勧め「万葉集」「源氏物語」「平家物語」「謡曲」「浄瑠璃」の5つの古典をあげている

最後の「おまえは今、死ぬるか」では次のように書いている

自分がひとりでこの世に生れてきたように最後も結局はひとりで死んでいくのだと身にしみてわかる時期がくる

そういうときにきちんと「ひとり」になることができれば、「死」はそれほど怖いものではないのかもしれない

しかしそのことをあらためて自分自身に問うてみるとき、そのことにほとんど確信がもてないでいる自分の姿が見えてくる

人間というものは、自分を取り巻いている自然と溶け合って1つになるような気分になったとき、静かに自分の死というものを受け入れることができるのではないかと考えるようになった

今、70歳にもなり、末期がん患者の身でもあるだけに「死」というものを考えさせられる
自分の「死に支度」について考えることは敗北ではなく、より豊かな人生を生きていくために必要なことであると確信を強くすることができたような気がする
「ひとりになる」ということはどういうことなのかを「課題」としていきたい

画像 ( )
2010.12.05:choro
[2010.12.13]
長朗 (長朗)
[2010.12.12]
私もチャレンジ (toco)
[2010.12.08]
是非 (長朗)
[2010.12.07]
読んでみます (鑑査役)

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