choro note

▼自分の死に場所と、死に方は?

昨晩NHKの夜10時からのドキュメンタリー「人生の最後を過ごす家」を観た
2つの点が印象に残った
1つはこのような形での人生の最後を過ごす施設があるのだということを知ったこと
この家は宮崎市にあるが、母親がアルツハイマーになった娘さんが、母親をより良く介護しようと思いたって作った施設(家)である

母親が住んでいた家を提供し、その家に最後間近の人たちを迎え入れ、地元NPOの力を借りて家族のように暮らしている様子が映し出される
母親の孫にあたる実の孫娘2人の果たす役割は素晴らしい

昔はどこの家でも見られた光景であるが、今はこのような形でしか見られなくなってしまった
孫娘2人の歌や遊戯にはこの男性と同じように涙が出てくる

2つ目は入居したある男性が死を迎えるにあたっての家族(息子たち)との関わり方である
この男性はガンで余命3ヶ月を宣告され、死に場所としてこの家を選択して入居して来た
息子が二人いるが、「息子たちには迷惑をかけたくないので」というセリフが男性の口から語られる

男性は現役時代に大手銀行で活躍した典型的な企業戦士で、「子供の面倒は見なかった、だから今さら子供に面倒を見てもらおうという考え方はしたくない」というようなことも語っている

さらに自分の企業戦士としての体験から、「息子たちの今、は大変な時期だから」ともいう
その姿、表情は自分が選んだ最後の迎え方への自信がそうさせているのか、凛とした様を映し出してはいるが、どことなくさびしさも匂わせる

NPOの責任者が「聞き書き」という作業のなかで男性に対し、息子たちの「最後の家」への来訪を要請する
最後のときも考えてのことであるということも含まれている

依頼に応えるかたちで二人の息子は大阪から宮崎まで来たが、その姿は写されていない
父親は息子たちが忙しいなか経費を使ってきてくれたことに感謝の言葉を述べているのが写されただけ

息子たちには子供もいるようである。男性にとっては孫である
最後の家で孫娘のような2人が披露する遊戯に涙汲む男性は自分の孫たちへ思いは声高には語ることはない

この男性と息子たちとの関係がどのようなものであるかは全くといっていいくらい触れられていない。先ほどの男性が語った言葉だけである

男性のいうことは凛とした生活態度や企業戦士として戦い抜いてきたという自負心も感じられて、男の生き方としての格好いいところもあるが、本音はどうなのだろう

また息子たちの生き方として父親の最後の場つくりとして父親の選択でよかったのだろうか

人間としてできるだけのことをして親を看取るということは、息子たち自身のこれからの人生をたくましく生きて行くためには必要なことではないだろうか
孫たちにとっても・・・

このようなテレビの映像を観ていたら、自分なら最後の場面をどうしたいのか、とふと考えてしまった

自分の死に場所と死に方をどうしたいのか
考えてみたところでそのときが来て見なければわからいことではある

でも今は思う
家族に温かく見守られながら、惜しまれながら、この家で死んで生きたい、と
1人で寂しく死んで行くのは恐ろしい気がする。この男性のように1人で死んでいけるほど強くない
家族に見守られながら、最後の感謝とお別れの言葉をきちんと話してさよならをしたいと思う

テレビの男性と同じように家庭を顧みず、子供とも触れ合うことなくひたすら仕事仕事でやってきてしまった
今、そのことに気づいて後悔するとき胸が痛くなるが時間はもとにはもどらない

償いの生き方を志しているつもりであるがそれがどうなるというのか
家族に温かく見守られながら死んでいくなどという甘いことは期待せず、この男性のように、割り切った潔さをもって死んでいくという覚悟があってもいいのかも知れない

自分らしさを貫いて生きていくことだけを考えて



2009.07.17:choro

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