choro note

▼「ゴンボ掘りとカラキズ」−(2)

淡谷 のり子はゴンボ掘りであると同時にカラキズの代表格であったと紹介している

カラキズという言葉は津軽言葉なのだろうか、津軽人特有の気質なのだろうか
該当する漢字はあるのだろうか、あるとすればどういう漢字だろうか

カラキズに関して次のように書いている

『カラキズとはジョッパリとは違ってもっと強い。それは判断以前であり、「カンとくるどうにもならぬ感情」だ。善悪の前にあって、利害や打算など入る余裕もなく、抜き差しならぬ感情であり、それだけに思いがけず、「純粋で爽快なもの」であることもある。淡谷の、いわば修羅場を潜り抜けた末にも、なお残している、この潔癖なカラキズが爽快であった。

軍歌もモンペも拒んだ。戦時下にあっても軍部に屈することがなかった。『別れのブルース』は放送禁止となった。戦後にも、1967年のワシントンポスト紙へのベトナム戦争反対のための一面広告「殺すな」の発起人の1人となり、平和コンサートを幾度も開催している

「歌って稼ぐ歌屋さん氾濫の時代」という淡谷の発言が、論争を巻き起こしたりもした
まさにカラキズの津軽女だった』と

カラキズという言葉は初めて触れる言葉であるが淡谷のり子がカラキズの代表格といわれると、その言葉のもつニュアンスが伝わってくるような気がする

「カンとくるとどうにもならぬ感情」カラキズには親しみを感じる
淡谷のり子の100分の1くらいかもしれないが、私の中にも似たような感情源が巣くっているからである

40年間サラリーマンとして宮仕えをしてきた
その間に「カンとくるどうにもならぬ感情」にせっつかれ、上司に盾突いたり、組織に背を向けたりしていたときがあった
自分なりに苦しんだり悩んだりしてきた。失敗もした。

組織の価値観や常識、しきたりなどにうまく合わせていくことができない自分がいた
今にして思うともっと柔軟にしなやかに振舞えばよかったのにと思うこともあるが、自分で選択して生きてきたのだから悔やんだりはしていない

その「カンとくるとどうにもならぬ感情」は今でも老体に巣くっているようでる
現役の時は扱いかね、もてあまし気味であった「カン」(カラキズ)も定年になってからは生活のなかで、生きがいを感じるセンサーの役割を果たしてくれるようになった

ともすれば単調になりがちな熟年男性の生活のなかで、「カン」(カラキズ)は毎日の生活に潤いと張り合いをもたらしてくれているといえる

残された残り少ない人生である

自分の心と体の声に耳傾けて、自分に正直に、好きなように生きてみたいと思う

カラキズが「純粋で爽快なもの」であるならば「与生」(余生でなく)を自分なりのカラキズとともに生きていくのも悪くはない

1回しかない自分の人生なのだから


2009.01.31:choro

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