choro note

▼「ゴンボ掘りとカラキズ」−(1)

先日ある新聞に「ゴンボ掘りとカラキズ」という表題で淡谷のり子の紹介記事が載っていた


ゴンボ掘りとは懐かしい言葉
津軽の言葉でいうと「駄々をこねること」だそうだ
故郷秋田でも同じ言葉が同じような意味で使われていた

昔法事などで親戚が集まって酒盛りが始まると参加者の中から「ゴンボ掘る」者が出てくる
ゴンボ掘る人は決まっている。そしてゴンボ掘りが始まるのもいつも想定内のことであった

私の親戚の集まりで酒が出ると、ある一定の時間になるとゴンボを掘り人が動き始め、次第に座が乱れ、喧嘩のような状態になる。時には暴力沙汰になることもあった

女性群は又始まったとばかり、さっと逃げて一時避難をする
ほとぼりがさめたころ何食わぬ顔をして席に帰ってくる
ゴンボ堀は出来上がって寝込んでしまうか、無理やり帰されて幕が引かれる

それで終わり。一件落着で何もなし
翌日は何もなかったかのようにしてお付き合いが始まる

今にして思えば良き時代であったともいえるのではないか
もちろん酒の力をかりての「駄々をこねること」は許されるべきではないと思うが、昔は身内ということで親戚一族は許していた
許していたのは、親戚という身内意識の連帯感が強かったからではなかろうか
昔のほうが今よりも「親戚」というつながりが強かったように思われる

そしてゴンボ掘る人は飲まないときには「いい人」であることが多く、甥っ子や姪っ子には人一倍優しかったりして

今は家族でさえばらばらの時代、親戚など他人に毛が生えたくらいの存在でしかないようである
リストラにあっても故郷の家族や親戚を頼れない人がテレビのインタビューに「頼れる人がいない・・・」と答える

5年前にケニヤにいった
キベラという100万人を抱え込んでいる大スラム街へ行ったとき、自分の子供を養うこともできない人たちが、親戚の子供を引き取って暮らしている様を目の当たりにした
子供たちは、「ハウドユドウー」といって握手を求める手を差し伸べながらわっと寄ってくる
その子供たちの眼は不思議と明るく輝いていた

リストラにあって今日の生活に困る人の苦しみ、不安、悩みは計り知れない
食うことの心配も大きいが、心のよりどころを失い一人ぽっちでうごめいていることの方が生きていくうえでの根源的な痛手ではないか

「ゴンボ掘り」が活躍できた時代の方が、まだ親戚の連帯感が残っていたという意味でひょっとしたら「良き社会」であったのかもしれない

社会は進歩しているようで実は劣化してしまっているのかもしれないのだ


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