さがえ九条の会

▼「太平洋戦争開戦記念日」

    長岡 禮子

 今年の12月8日は、「さがえ九条の会」の大切な行事がありました。
映画や講演で、私たちの幸せな生活を支えるために「憲法九条」どんなに大切か改めて確認しました。
 今から64年前、私が11才のときの12月8日は、左沢小学校の5年生でした。女子体操場の背面黒板に「鬼畜米英」と白いチョークで書いてあるのを見て背中がゾクッと寒くなったのを今もはっきりと思い出すことができます。
 それからの小学生は、学習を中断して毎日のように左沢駅前の道路に整列して、元気な楽隊の演奏の中、日の丸の旗をふって出征兵士の見送りが続きました。
 しばらくすると「海ゆかば」の悲しい曲の中で遺骨迎えに整列するようになりました。白い箱が家族の胸に抱かれて列車から降りてくるのを「わたしのお父さんだったら・・・」と思うと小さい胸が痛むのでした。私も女学生になり、毎朝の通学列車は、農村動員の列車にかわりました。山形市の南、南沼原村吉原の農家をまわって働いているうちに8月15日の敗戦を迎えました。多くの生命が失われました。
 若い生命を失って、靖国神社に神となって祭られても人間として生まれた喜びはあるものでしょうか。
 1957年(昭和32年)私は結婚しました。人生の伴侶として選んだ人は、海軍特攻隊の無理な生活から身体障害者として生きなければならない人でした。甲種合格の立派な体格の人が、入隊1年足らずで身体障害者となり結核療養所で10年間も生活しなければならなかったのは戦争の結果でした。
 航空隊で彼は当時、母親から送られてきた小包を上官の目の前で開かせられました。そこには母の心づくしの「干し芋」が入っており、「ここで1本食え」と言われて食べたところ、あとは上官がすべて取り上げられてしまっとそのときの悔しさを語っておりました。そして、「兵隊は天皇からおあずかりした赤子・・・」といいながら、軍隊というところは人間性のかけらのなかったそうで、夜になると月を見ては泣いたとのことでした。
 どの戦争もすべて殺し合いですから、勝っても負けても人間の幸福につながらないものです。しかし、60年前のこんなことも忘れてしまうものでしょうか。
 父親が戦死したり、夫が帰らぬ人となって苦労に苦労を重ねた人たちの中にも「9条を守る」という平和運動にも町内会長だから賛同できないなどと言う声があることは信じられません。「歴史は繰り返す」ほかないのでしょうか。
 みんなの幸せのために「九条」を守ることをあきらめてはならないと思うのですが・・・


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2005.12.28:aone
[2008.12.08]
その日の記憶 (琵琶)

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