さがえ九条の会

▼東海林正志氏の戦争体験

 〜最終回〜

 昭和28年4月頃から、鶴岡炭鉱で働いていた強制残留の日本人は、待ち焦がれていた日本への帰国が出来るようになり、何回かに分かれて次々と日本へ帰国して行きました。
 私たちの帰国が何時になるのかと気を揉んでいると、結局一番最後までのこされて、9月
中旬に、二十代後半の独身者百数十名がようやく帰国する事になりました。
 鶴岡市の鉱務局と市の人民政府により歓送会と宴会が持たれた。その席上、人民政府の
副市長が祝辞を述べられた。

 「終戦1年後の廃坑寸前みたいに荒れ果てた炭鉱の再開に苦労している時、皆さんは劣悪な生活環境で、襤褸切れを継ぎ足した雑巾のような衣服をまといながら、なれない坑内作業を厭わず、中国の工人と共に苦難を分かち合って、愚痴一つこぼさず、中国の工人を励まし頑張ってくれた。鶴岡炭鉱の復興と驚異的な発展は、皆さんの積極的な貢献を抜きにしてはありえなかった。中国人民と日本人民が共に手を取り合って戦争に反対し平和と民主主義のために闘おう。日本人民の平和と民主主義を守る闘いの戦列に加わる君たちの健闘を期待する」
 その後副市長さんは、私たちの座っているテーブルを回り一人一人と握手されました。
この祝辞は単なる社交辞令やお世辞でもない本当の気持ちを話してくれたのだと思いました。
鶴岡での7年間の生活を想い起こすと、当時の印象深い情景が次々と甦ってきます。
昭和25年五月下旬頃、日本人の労働組合の幹部から日本への帰国が可能になったと話があり、日本人は帰国の準備のため、坑内の作業を止めて郊外の仕事をすることになりました。私たちはこれまで何回か、日本への帰国について騙された事があるので信用できなかったが、今度は本当らしいと小躍りして喜びました。
 でも叉雲行きが怪しくなったのです。寝耳に水のような朝鮮戦争が勃発し、その戦争が拡大の一途をたどり、中国の政府から「朝鮮戦争が終結に向かう兆しがまったく無く、玄海灘の汽船の航行の安全が保証されないので残念ながら今回の帰国は見合わせる」との事で、日本への帰国は暗闇の中に消え去った。

 鶴岡には終戦後、北朝鮮から出稼ぎでなく、移住して働くようになる朝鮮人が家族ぐるみで来ていたのが少なくなかった。その中の青年たちが、救国の情熱に燃え、朝鮮人民軍に志願し従軍することになるのです。彼らの乗った列車が私たちの生活していた南山地区の独身寮の直ぐ近くを通り、窓から身をのりだして、手を大きく振り、見送る私たちに「頼むぞ頑張れ」と叫び、私たちも頑張れと声援をおくりました。
 坑米援朝運動は全中国人民を巻きこみ、私たちも国際連帯の意気を示そうと、生産を高めるだけでなく、中国人民義勇軍を直接支援しょうと、坑内で仕事をしているものは三日間の工賃を、郊外作業のものは1日の工賃を支援しようと自主的な話し合いで決めました。
 私たちでよかったらと中国人民義勇軍に志願しましたが、外国人は駄目だと断られました。でも私たちには、日本の平和と民主主義の闘いに参加しなければとの意思がありました。
 色々な事情から昭和28年九月の帰国は出来ず。日本に帰国できたのは、昭和33年4月でした。
竹のカーテンで閉ざされた未知の国から着た私たちを、よく帰って来たと温かく迎えてくれたのは身内だけでした。
 
 10回目で私の戦争体験を終ります。
  有難うございました



2006.05.06:aone
[2008.07.15]
父ちゃん (東海林智)

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