さがえ九条の会
▼東海林正志氏の戦争体験 7
〜終戦前後の私たちの義勇隊開拓団〜
この前の大公河義勇隊開拓団の小興安嶺越えの逃避行の日数は約二十五日前後で、通北地区の開拓団にたどり着いた隊員は五十数名で、そのほとんどが、昭和21年9月に鶴岡炭鉱に強制残留させられる。昭和28年に日本に引き上げる。
昭和18年10月に元北安省通北県の通興駅から36キロのところに天ケ原義勇隊開拓団として入植する。入植当時約200名の団員がおりました。その後兵役で団員が次々と団を去り、昭和21年に入ると一番年下だった私たちが、1年繰り上げの徴兵検査で第二乙種まで召集され団に残った団員は十数名になり、団長にも召集が来て、幹部が二人残り,ご主人が召集されて残された奥さんが9人おりました。
このような時に、補充入植の形で、満州国の万里の長城を境とする熱河省の点在する農家が、抗日ゲリラの隠れ家になると、強制的に集落に集め、その集落に入れきれない農家約二十戸が私たちの開拓団に来たのです。
終戦後、地元の治安維持会による武装解除が行われて間もなく1回目の元満軍と元満警と見られる十名前後に襲撃される。私たちの団に補充入植した現地人は口こみで私たちより早く終戦を知り一部の現地人は残ったが、一緒にいてはどうなるのかと不安になり脱走して行く。
数日後、団本部の北側の道路を2列に並び,先頭は銃を持った元満軍らしき者十名ぐらいで、後続は槍を携えた農民五十名前後でした。
先頭の一人は畳一枚ぐらいの青天白日旗(中華民国の国旗)を持っていました。
彼らは歓声を上げて北側から突入してきた。団員たちは東側の土塁を越えて草むらに潜んで見守っていた。襲撃してきた彼らのリーダーらしき者の訴えが聞こえてきた。
「中華民族は日本帝国主義の傀儡であった満州国の圧制に身も心も削られるように虐げられてきた
貧苦のどん底にある中華民族は生きて行くためにこのような行動に出ざるを得ない」と自らの行動の正当性を主張した。
(満軍の中には、国民党軍と八路軍の工作員が潜入し、じっと潜伏しておりました。終戦と同時に満軍の反乱などに動き出したが、ソ連軍が絶大な権力で治安維持にあたっておりましたので、水面下で沈黙していた。昭和21年初め頃から満州国からの撤退が始まると、国民党軍と八路軍の工作員は自らの勢力圏を拡大するため活発に動き出し、内戦が避けがたい情勢になって行きます)
襲撃してきた彼らは、兵役で召集された団員の所有物が一杯はいっている倉庫を散々荒らして主に衣服などを持ち出し、開拓団の日本馬に乗せたり、背中に小山のように背負い引き上げて行きました。彼らが襲撃してきた時は、昼飯の時間でしたので、これから飯を食べようとしていた折でした。そこに襲撃してきたので、飯を食べずに逃げました。
彼らが引き上げていったので、腹が減って飯だと部屋に入ると。肝心の飯やお汁、副食などが食い散らかされていたのでびっくりしました。彼らの襲撃に無理な反撃をしなかったのでこちらには一人の犠牲者も出ませんでした。
その後は、現地人の襲撃は少なくなり、それから冬をこして昭和21年9月の日本への引き上げまでは受難の時期で、開拓団の地域から南下することなく、開拓団跡地で生活したのですが、やはり多くの子供や年寄り、団員も、食うもの困り、身体の衰弱により、発疹チウスなどが蔓延し、おおくの犠牲者を出しております。
2006.03.18:aone
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