さがえ九条の会
▼東海林正志氏の戦争体験 6
(続) 〜満ソ国境地帯に置き去りにされた義勇隊開拓団〜
孫呉駅より40数キロ離れた孫克県(満ソ国境まで10数キロ)に先輩中隊が昭和16年に入植し、その後次々と兵役で召集されて、団員が少なくなり、昭和20年5月に、補充入植で第5次の静岡県の池谷中隊百十数名が大公河義勇隊開拓団に入植するのです。
昭和20年8月9日、団員たちは、普段と同じように大豆や小麦の除草などの仕事をしていた。午後2時ころ、北西の上空から見慣れない飛行機が飛来し、孫克街の上空を過ぎたと思っていると、轟音と共に物凄い黒煙が上がり、ソ連軍が満ソ国境を越えて侵入してきたものと直感する。
この開拓団は、十七・八歳の独身者だけでしたので、すぐに脱出するには、何処に行けばよいのか皆目見当がつかず、軍用道路を通って孫呉方面に出れば、ソ連軍の戦車部隊に追いつかれればもう助かる見こみがないので、馬車を仕立て、食料や寝具日常品などを積み、団で飼育している日本馬に乗り武装して、山道に入る。
その山は、国境地帯から西南に連なる小興安嶺の大山脈を通過しなければならないのです。そして大公河開拓団から、北安街を過ぎて、通北地区の開拓団地域までは300キロ近くあるのです。この距離を知っていなかった団員は、無謀というか、一週間で小興安嶺を越えることが出来るとの予想だったのです。
山に入ると馬車を捨て、積載している荷物も捨てて、人跡未踏ともいえる、背だけほどの草や雑木を掻き分け、あてども無くさ迷うように歩き、食料も無くなり、連れてきた馬を次々と殺して、食い、1日一切れの馬肉で過ごす日もあったようです。
途中で行き倒れの遺骸などを見ながら、明日はわが身と思う日々だつたようです。
大公河開拓団のすく近くに入植していた大青森郷開拓団も、小公興安嶺越えで、一般開拓団でしたので、年寄りや子供、ご婦人も多くおりましたので、歩けなくなった人たちを、後で迎えにくるからと一定の食料をおいて、置き去りにしてきたのです。
このように難儀してようやく北安街を左にみがら、現地人の集落を見つけ、その集落の様子見に行った5人の団員が、突然集落の現地人にみつかり、銃の集中攻撃を受け、高粱畑に逃げ隠れていたのですが、その後一緒に行動を共にしていた、仲間と離れてしまい、そこからそんなに遠くないところの、七つある通北地域の日本人の開拓団にたどり着きます。
この折り一部の団員は、ハルピンを目指して南下していったみたいでその人数は分かっておりません。
小公安嶺を越えて来た団員のほとんどは、この地域の開拓団に御願いして、お世話になることになるのです。ここの開拓団にたどり着いた団員は、途中で犠牲になった方や南下した方もおりましたので、50数名だったみたいです
2006.03.16:aone
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