さがえ九条の会
▼九条と残留孤児(私の戦争体験) 新山町 伊藤雅敬
私は1943年、旧満洲国奉天市(中国遼寧省瀋陽)で生まれた。当時、親子4人、奉天、新京とそれぞれの満鉄社宅で暮らしていたそうだ。父はあと3ケ用で戦争ガ終わるという45年5月に招集され、敗戦後、3年間のシベリア抑留のあとようや<引き揚げてきた。
母は疎開先の新安州で敗戦を聞いたという。翌46年9月、ようや<帰国の途につ<ことが出来そうだ。母は大きな荷物を背負い、妹を胸に縛り、私に小さいリュックを背負わせ、私の手を取り、馬車と貨車を乗り継ぎ約1ケ用かけて帰国したという。この時、もしも、母とはぐれたり、母に置かれたら、私は確実に残留孤児になっていただろう。そうすれば、今頃「お父さんお母さんいませんか」と捜しに来ていたと思う。よ<もあの混乱の中、私たち幼い兄弟を連れて帰って来たと、母の信念、根性には感謝の念でいっぱいである。
この残留孤児という呼び名、なんと嫌な言葉だうう。
残留孤児のみんなは、あの無謀な戦争の犠牲者で、両親や兄弟と離れ離れになったり、事情で中国に残されたり等の結果であって、好きで残留孤児になったのではないはずである。私も−歩間違えば残留孤児になっていたと思うと、戦争には心の底から憤りを覚える。
このように戦争とは、国民を守るのでな<、権力者の領土争いで、いかに多<の人間を殺すかの最大暴力である。現実、その証拠として旧日本国軍隊は沖縄戦で都合が悪<なると島民(女子や子供たち)を殺戮している事実があるではないか。それを自衛隊(軍隊)はあたかも国民の生命と財産を未来永劫守って<れるものと勘違いしている人がいかこ多いかと残念でならない。
今日の日本があるのは、敗戦後、国民みんなが真面目に一生懸命働いてきたからでもあるが、それと「憲法九条」があったからでもある。この平和憲法が国の発展に大き<貢献していることは誰もが認めるとこるである。
これを改正して戦争が出来るようにするという、いつか来た道の過ちは絶対に許してはならない。声を大にして訴え、体を張って行動し、なんとしても阻止しなければならない。
2006.03.04:aone
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