さがえ九条の会

〜鶴岡炭鉱での七年間 東海林正志〜

 私たちの義勇隊開拓団から鶴岡炭鉱に強制残留させられた仲間は、10名でした。その中から、身体の衰弱による結核で二名が帰らぬ人となり、一名が酸欠事故、もう一人の仲間は落盤で犠牲となりました。鶴岡には、最初の列車で千数百人が強制残留させられ、その後、元奉天、元薪京、ハルピン、鶏西、中国人民解放軍に従軍していた日本人が復員してきました、その合計人数は三百人近くおりました。ですから、鶴岡には、千六百人を超える日本人がおりました。
 明確な統計は出ておりませんが、身体の衰弱による病死、落盤、酸欠事故などによって四百名近くの死者が出ているのではないかと思います。
鶴岡に強制残留させられた日本人は、夏服の着たきりでした、それに精神的に、日本に帰国できると信じていたのが、なんと、帰国の見とおしは消え、賠償の見かえりで、何の期限もつけない炭鉱労働で一生扱き使われるのではないかとの不安にさいなまれていました。でも生きて日本に帰るためには、働き食を得なければならないと、自問自答し働き始める。

 当時の鶴岡炭鉱は、戦前の日本人経営者から受けついた、採炭夫の安全をまったく無視した採炭法による採炭が行われていた。日本の炭鉱の炭層は、二メートルと言えば、最も炭層が厚いほうで、それ以下のところがほとんどでした。ところが鶴岡の炭層は六メートルもあるので私たちもびっくりしました。六メートルの炭層の底辺から掘進で縦横二メートルの切羽を二十五メートルぐらい掘り進み、そこが採炭現場の切羽で、炭壁に発破を掛けて、広げて行くと、四メートル四方ぐらい広がると天盤を坑木で抑えていないので、天盤が落ちてきます。そのようにして切羽が広がって行き、六メートルの炭層が落ちて石の天盤が見えてくると、そこの切羽の採炭は終わりです。
 切羽が広がって行くと何時なんどき落盤があるかわかりません、大きな落盤がある時は必ずバラバラと小さな石炭が落盤の前ぶれとして落ちてくるのです。その前ぶれを見逃すと落盤の下敷きになるのです。ですから、私たちは緊張し、全神経を集中しておるのですが、スコップや鶴嘴を使い、夢中で働いているのですから、前触れに気ずかず、落盤の犠牲になるのです。

 採炭の切羽で、十二畳ぐらい広がった切羽で厚さが一・二メートルぐらいの炭層が落ちて、三名の仲間が下敷きになり即死でした。そこには断層があって、前触れが無かったみたいなのです。
当時を振り返ると、八時間の仕事が終って、坑外に上がってくると、「やれやれ今日も生延びることが出来た」とほっとします。本当に大げさではありませんが、戦場におる時とおなじように、坑内に入れば何時何処で身の危険が待っているのかわからないのです。
 当時は、終戦後、次の年から内戦に突入し、中国共産党の八路軍と国民党軍との死闘が展開されておりましたので、私たちだけでなく中国人も坑内で精一杯働いても食っていくだけのようでした。
私たちも、鶴岡で3年間働き、昭和24年初め頃、ソ連制の毛布を買うことが出来て、それまでの着どころ寝から解放されて、のびのびと寝る事ができるようになりました。
 鶴岡では落盤による死者が事故関係では最も多かったのです。私も落盤で下顎骨折と裂傷で気を失い、病院で負傷したことに気づきました。幸いな事に日本の歯医者さんがおりましたので、下顎の骨折を直してくれました。その後遺症で現在でも、指が二本口に入るくらいしか口が開かないのです。


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