改憲と護憲 巌流島の勝負の行方は
(2005/02/27) 今月3日。中曽根康弘氏のあいさつは高揚感に満ちていた。 「憲法改正という大事業、その中でも前文はお寺でいえば山門みたいなもので、非常に大事な場所だと思う。そういう大きな責任をしょって、私たち、見事に責務を果たしていきたいと思っておる次第です」 自民党に新たにできた新憲法起草委員会の「前文に関する小委員会」初会合。中曽根氏はその委員長なのだ。 高ぶるのも無理はない。1956年に「憲法改正の歌」をつくるなど、この半世紀、氏が執念を燃やしてきたのがこの問題だった。一昨年、小泉首相から政界引退を通告されて「政治的テロだ」と怒ったときにも、やっと自民党が改憲案を作る段階になったのに、と無念の思いを隠さなかった。 起草委員会では森喜朗前首相が委員長となり、その下に10の小委員会ができた。86歳になった大物の元首相に前文づくりを委ねたのは、その情念に応える一方で、起草委に重みをつける意味もあるのだろう。 ◇ 重みといえば、もう一人の元首相が「天皇に関する小委員会」の委員長になったのには驚いた。こちらは85歳。保守の護憲派の雄というべき宮沢喜一氏である。 思い出すのは97年4月、憲法50年を期して実現した中曽根、宮沢両氏の対談だ。改憲・護憲の激突として朝日新聞に連載された後、本にもなった(朝日文庫『憲法大論争』)。 その司会を政治部長だった私が務めたのだが、会場のホテルに早めに現れた宮沢氏に対し、中曽根氏は何かの事情で10分ほど遅れてきた。待たされた宮沢氏が「巌流島ですかなあ」と苦笑したのを忘れない。対談では武蔵と小次郎ばりの火花が散った。 占領下にマッカーサー司令部が骨格をつくったこの憲法には、民族の歴史や伝統に基づく国家観が欠けている。軍隊を持たないという9条は安保条約による米軍の保護があってのことで、自主性がなさ過ぎる。時代に合わせ、21世紀にふさわしい憲法を自分たちが創(つく)るときではないか。 そのように中曽根氏が熱弁を振るえば、対する宮沢氏も引かなかった。 日本は軍隊を持って、過去に大変な失敗をしたではないか。9条のもとでやれることは自衛隊がやれるようにしてきたのだから、これ以上、軍隊をもったり、外国で武力行使したりするのは愚かなことだ。戦後日本はこの憲法を使いこなしてきたのだし、それは大事にした方がいい。 あれから8年、改憲が現実テーマになったのは政治の大きな変化である。衆参両院に憲法調査会ができて5年。自民党は11月に開く結党50年記念の党大会で、党の改憲案を決定することになった。それに向けて4月中に起草委の試案を示せるよう、各小委員会は3月中に考えをまとめるという。ときの流れは武蔵にあり、ということか。 しかし、よりによって宮沢氏がこの作業に加わろうとは……。真意やいかにと思ってご本人に尋ねると、森氏からぜひにと頼まれたのだという。「党の新憲法案を創ることはすでに選挙で公約しているし、ここは総理総裁の経験者にもそろって協力していただきたい」。気が進まないからと断ることもできたが、断れば角が立つのでお引き受けした、というのだ。 天皇問題なら無難そうだと考えたのかもしれないが、それにしても宮沢氏を取り込もうとは、森氏らもなかなかのものである。 しかし、宮沢氏が断らなかったのは「角が立つ」からだけでもあるまい。「いずれ9条についても、私の考えを言わせてもらえる機会があるんでしょう」というから、断って蚊帳の外に置かれるよりはこの方が、と踏んだのだろう。小次郎もただ負けるわけにはいかぬ、の心境ではないか。 ◇ 関心の的である9条の小委員長に起用されたのは、前官房長官の福田康夫氏だった。熱っぽい改憲派を避けて、穏健なバランス派を起用したところに配慮のほどがうかがえる。 自民党では9条改正論が圧倒的とはいえ、どう変えるかとなると一様ではない。名実ともに軍隊の存在を書き込むのか、それとも自衛隊の明確化にとどめるのか。外国での武力行使にも道を開くのか、それには歯止めをかけるのか。そこにも中曽根流と宮沢流の違いが浮き上がる。 しかも、自民党案ができればそれで勝負ありというわけではない。各党の考えがばらばらの中で、他党を巻き込み、衆参両院議員の3分の2、さらに国民投票で過半数の賛成を得るのは容易な話ではないからだ。巌流島の決着はまだまだ先のことになる。 さて、言論の世界にも急速に改憲論が広がる昨今、それは決してひとごとではない。さあどうするかとせっつく向きもあるが、感情的な議論が先走りがちな中で、ここはあわてることもないだろう。日本社会や世界の状況などを見定めながら、じっくり勝負に臨みたい。実は私も、武蔵を見習いたい心境なのである。 |
〜目に見える行動提起をお願いします〜
明けましておめでとうございます。昨年末からの「さがえ九条の会」拝見しています、そして関係者のご奮闘に敬意を表します。 2006年は、自分から申すまでもなく、憲法改悪を許さないことと、青年学生の状態悪化のくい止め、核兵器の削減、共謀法案の廃止など日本のファシズム化を許さないための正念場の年じゃないかと思います。 そういった民主主義の根幹に関わる重大なこのとき、豪雪の中ではありますが、「九条の会」独自の宣伝活動(チラシ配布)も検討されていかがでしょうか?ネットのツールも有効ですが、寒河江ではまだまだ普及度合いがイマイチだと思いますし、ホームページの存在を知らせる意味でも…。 今年は、去年と同じように…いやますます厳しくなりそうな状況下にあります。日々働く真面目な市民が生活苦と労働苦によって働く誇りを失い、自殺をして自らの存在を経とうとし、また青年学生は、働き、学ぶ意欲を失い、将来の生活設計が立てられなくなり、明日への展望を失っています。市民が明日への日本の将来への展望をなくしています。 私たちも含めて、将来への展望を失いかけつつある市民に、小泉改革の規制緩和による競争社会をなくして、人間らしい生活が出来るような仕組みに喚起することを呼びかけることもいいんじゃないかな。今年こそ人間復興の年にしたいと、切実に願うものです。そうしようよ、そのためには目に見える行動起こそうよ。 ...もっと詳しく |
佐高 信氏(「週刊金曜日」編集者)が山形に来ます。 1月14日(土)午後2時から山形霞城セントラル3F山形市保健センター大会議室にて 講演 入場無料 どなたでも参加できるとのこと。 《人物メモ 》 経済に限らず、政治、社会などをズバズバ斬り捨てる辛口評論家。 《略歴》 1945年山形県酒田市生まれ。高校教師、経済雑誌の編集者を経て評論家に。「社畜」という言葉で日本の企業社会の病理を露わにし、会社・経営者批評で一つの分野を築く。経済評論にとどまらず、憲法、教育など現代日本のについて辛口の評論活動を続ける。近著に『日本論』(姜尚中氏との対談、毎日新聞社)、『君今この寂しい夜に目覚めている灯よ 佐高信対談集』(七つ森書館)など。 |
作家 井上 ひさし
日本国憲法は占領軍から、正しくはアメリカから押しつけられたものである――という説があります。でも、わたしはこの説を信じない、とても卑怯な俗説だから。たしかに、いくらかは押しつけられたところもあったでしょう。けれども、戦争直後の日本人、とりわけ当時三十代後半から上の世代には、この新しい憲法は、どこか懐かしい古い子守唄のように聞こえたはず。なにしろ彼らと彼女たちは、かつて、政府のやり方に不満を持った人びとが日比谷公園で騒ぎ出して、ついには議事堂に火をつけようとしたことや、憲法を守れと叫んで内閣を倒した人びとがいたことや、日本海側のおばさんたちの「米よこせ」という血を吐くような声があっという間に全国にひろがったことや、輝やかしい将来を約束された学生たちがその将来を捨てて、働く人たちと肩を組み合って「この国の仕組みを変えよ」と主張しながら獄中で息絶えて行ったこと――そういった直近の事件群を、断片としてではあれ頭のどこかに記憶していたにちがいないからです。 そういった歴史の事件群のなかでも、あの大戦争のあとの三十代後半から上の世代の日本人の記憶にまだ鮮明だったのは、東京帝大教授吉野作造の説く「政治は国民を基とする」という民本主義だったに違いない。そして吉野のこの思想を発火点として、大正デモクラシーと呼ばれる新風が和やかに、しかし粘り強く吹きつづいていた時間もあったっけと思い出した。ですから、占領軍の役割は「日本人よ、ちょっと前の時代を思い出してごらん」と声をかけてくれただけ。いまの憲法は、そのころの日本人が過去の記憶をよびさまして掴み取ったもの。いまの憲法に当時の民間憲法草案からたくさんの事柄が流れ込んでいる事実も、わたしのこの説明を支えてくれるはずです。(the座51号 |
長岡 禮子
今年の12月8日は、「さがえ九条の会」の大切な行事がありました。 映画や講演で、私たちの幸せな生活を支えるために「憲法九条」どんなに大切か改めて確認しました。 今から64年前、私が11才のときの12月8日は、左沢小学校の5年生でした。女子体操場の背面黒板に「鬼畜米英」と白いチョークで書いてあるのを見て背中がゾクッと寒くなったのを今もはっきりと思い出すことができます。 それからの小学生は、学習を中断して毎日のように左沢駅前の道路に整列して、元気な楽隊の演奏の中、日の丸の旗をふって出征兵士の見送りが続きました。 しばらくすると「海ゆかば」の悲しい曲の中で遺骨迎えに整列するようになりました。白い箱が家族の胸に抱かれて列車から降りてくるのを「わたしのお父さんだったら・・・」と思うと小さい胸が痛むのでした。私も女学生になり、毎朝の通学列車は、農村動員の列車にかわりました。山形市の南、南沼原村吉原の農家をまわって働いているうちに8月15日の敗戦を迎えました。多くの生命が失われました。 若い生命を失って、靖国神社に神となって祭られても人間として生まれた喜びはあるものでしょうか。 1957年(昭和32年)私は結婚しました。人生の伴侶として選んだ人は、海軍特攻隊の無理な生活から身体障害者として生きなければならない人でした。甲種合格の立派な体格の人が、入隊1年足らずで身体障害者となり結核療養所で10年間も生活しなければならなかったのは戦争の結果でした。 航空隊で彼は当時、母親から送られてきた小包を上官の目の前で開かせられました。そこには母の心づくしの「干し芋」が入っており、「ここで1本食え」と言われて食べたところ、あとは上官がすべて取り上げられてしまっとそのときの悔しさを語っておりました。そして、「兵隊は天皇からおあずかりした赤子・・・」といいながら、軍隊というところは人間性のかけらのなかったそうで、夜になると月を見ては泣いたとのことでした。 どの戦争もすべて殺し合いですから、勝っても負けても人間の幸福につながらないものです。しかし、60年前のこんなことも忘れてしまうものでしょうか。 父親が戦死したり、夫が帰らぬ人となって苦労に苦労を重ねた人たちの中にも「9条を守る」という平和運動にも町内会長だから賛同できないなどと言う声があることは信じられません。「歴史は繰り返す」ほかないのでしょうか。 みんなの幸せのために「九条」を守ることをあきらめてはならないと思うのですが・・・ ...もっと詳しく |
土田 ヨウ子
昭和26年4月、私は山形師範最後の卒業として、当時の北村山郡戸沢中に赴任した。中学校は山の中腹にあり、小学校は道路そばにグランドがあり、両校は長い階段で往き来ができるようになっていた。 神町に駐屯していた進駐軍は、高射砲を牽引した車、幌をかけた車、兵隊を満載したトラックで毎日のように大高根演習場を往復していた。休み時間に校庭で遊んでいた子供たちは、車の音を聞くと一斉に道路側にかけより柵に寄りかかり「サンキュウ」「サンキュウ」と叫んでは両手を伸ばす。兵隊たちは笑いながら飲みかけのジュースの缶、ガム、チョコレートのかけらなどを投げる。職員室の窓越しにそんな子供たちの姿を見ていた教師たちの思いはどんなだったであろうか。止めることもできなかった。 6月、今日から田植え休みに入るという日、「矢の下の子供が死んだらしい。中学生も被害にあった」と知らせが入った。 進駐軍は毎日のように実弾演習をしていた。そのため決められた曜日以外は、山にある畑にも行けなかった。その日の昼休み時間に子供たちは生活費の一部になる鉄くず拾いに山にいったのだ。4年生の男の子は不発の手榴弾を見つけ両手で掘って爆死。傍に立って見ていた中2の女子は大腿部や腹部に破片を受けてショック死。男の子の姉で中1の私の担任だった子は、足指などの怪我で東根日赤病院に運ばれたが軽傷だった。男の子は、みかん箱に藁を敷いた中に入れられ、粗末な家の薄暗い奥のむしろの上に置かれていた。手首の片方は見つからなかったという。猟師をしていた父親は、山に入れないため収入もなく、囲炉裏のふちにあぐらをかいてぼんやりキセルで煙を吐き、病弱な母親は、部屋の隅の薄い布団の上でただうずくまっていた。 1学期末、通知表を持っての家庭訪問。道路の東側からドーンという高射砲の発射音。ヒュルヒュルと頭上を過ぎる鋭い音、間もなくダダーンと西側の斜面にとどろく爆発音。戦争は終わったのだと心に言い聞かせつつ、足が絡むような思いだった。あの下で暮らしていた人たち。「スイカ、駄目になったべはー」「とっきび、烏にくわったべはー」とため息をついていた人たち。あの惨めな思い。 戦争はいや。負けるのはいや。でも勝つのもいや。もし勝っていたらと思うと別の意味でゾッとする。人殺しはいや。 負けたことによって生まれ変わり、たとえ外国の力を借りたとしても新しい憲法ができたことで60年以上も戦争しなかった国。平和を地でいけた国、九条を守ることはこれからもまたずっと平和を続けるということ。他の国の戦争にも手を貸さない。私たちの子孫の手を血で汚させない。文字だけの言葉だけの平和であってあっはいけない。それが私たちの心からの願い。 60年以上たってもまだ属国のようにアメリカのいいなりにならないのは何故。いつまで続くのか。独立国としての自負を持たねば。愛国心というのは戦争をすることではない。真に自国を愛する。自然に愛する。日本に軍は不用。実質ともに平和な国日本として世界に誇れる国でありますように。 九条は変えない! 変えさせない! |
太平洋開戦日の12月8日、さがえ九条の会主催による「映画とお話の夕べ」がハートフルセンターにおいて開催されました。
夕べは、井上ひさし氏ら「九条の会」9氏全員の訴えや元日本兵の証言などで構成された映画「9−NINEー憲法9条は訴える!」を見た後、山形童話の会代表・山形県九条の会よびかけ人の鈴木実氏が講演しました。講師が受けた当時の皇民教育や戦争体験とともに、戦後、「弾道下の村」と呼ばれた現村山市の大高根基地闘争を題材に描いた共著「山が泣いている」など、手がけた児童文学作品の経過、安保闘争などの経験などを話されました。「改憲され戦争する国になれば、実際戦争するのは子どもたち。子どもが最大の被害者だ。未来を担う子どもたちに平和な社会を残すのは大人の責任」と強調。参加者も決意を新たにしました。なお、「毎日新聞」「しんぶん赤旗」「寒河江あちこち」などが取材にきました。 「正男ーー、正男」 清一も声かぎり呼びながらさがしまわった。やぶに足をとられて、思わずころびそうになったときだ。目の前に、泥と血にまみれた一本の腕がころがっているではないか。全身の血が、すうっと引いてしまったようで、身うごきできなくなった。足ががたがたふるえる。のどがからからにかわき、舌がひっついたみたいで、声もでない。少しはなれたところに、正男のきていたふくがちぎれてとんでおり、そのそばに、赤い肉片があった。 第1回日本児童文学者協会賞受賞 「山が泣いている」より |
ジョークひとつで懲役刑という『共謀罪』
国際的組織犯罪条約批准の下準備の為、今政府によって国内法の整備が進められています。ところが、この中で新設されようとしている『共謀罪』は、現行の刑法の枠組みを大きく越える、憲法無視のとんでもない法律なのです。 現行法では、実行行為をなした「組織犯罪」について『共謀共同正犯(刑法60条)』 を課しています。ところが、今回の『共謀罪』は、4年以上の懲役刑を規定している犯罪について、実行行為がなくとも、話しあったり相談したりするだけで懲役3〜5年の刑罰を科すというのです。 この法律の適用に当たっては、実際に犯罪が行われたどうか、本当に実行する意志があったのかは一切関係ありません。例えば、労働組合で「逃げ回っている経営者に直談判をやるか」と協議しただけで、反戦団体が「アフガニスタンを爆撃している米軍基地の実体を詳しく探ろう」と相談しただけで犯罪とされてしまうのです。居酒屋で酔っぱらって「あいついっぺん殴ってやるか」と放言しただけでも、『共謀罪』として逮捕され、投獄されてしまうのです。 違法な行為は考えても喋ってもいけないという法律は、憲法で保証された「思想・表現の自由」を奪うものです。また、この法律が「団体規制法」として労働組合や反戦団体へ恣意的に適用され、弾圧に利用されるのは目に見えています。「結社の自由・団結権」は踏みにじられ、形骸化してしまいます。 これは戦前の治安維持法や戦後の破防法をはるかに上回る憲法違反の結社禁止法・人権抑圧法なのです。詳しくは、こちらのサイトへ…↓ http://see-saw.way-nifty.com/shidaraden/2005/10/post_bc56.html 〜S生〜 |
日本には何でも、分りにくく説明することが流行している。それが日本の政治の無関心を助長してきた。憲法9条論議もそうであった。しかし、憲法9条を破棄するかどうかは極めて重要である。多くの日本人の命にかかわることである。
政治の現実的な選択肢を示すことが、分り易い、憲法9条論議ではなかろうか。現実の選択肢を示さない憲法論議は抽象的で分りにくい。また後付けでどうにでも言い逃れる、どうでもいい解釈可能な議論になりやすい。 憲法9条に関する選択は二つである。一つは現状維持である。60年間平和であったのは憲法9条のおかげであった。他は9条を破毀して、集団的自衛権を認めることである。それは必然的に日本軍がアメリカ軍に組み込まれることである。日本の若者をアメリカ軍の指揮の元に死に追いやる可能性が極めて高い。これが二つの現実的な選択肢である。だが、9条を破棄したい人は狡猾である。娘がレイプされかかったときどうするんですかとか、敵が攻めてきたら武器も持たずに命を差し出すんですかと言って来る。一億分の一のレアーケースを引き合いに出して、万一の場合にアメリカ軍は必要じゃないですかといってくる。東海大地震が必ず起きるから、高額商品を買えというようなものである。詐欺商法には気をつけましょう。改めて言えば、日本に再びジンギスカンが攻めてくることは無い。人の恐怖心を煽って、憲法9条をバナナの叩き売りみたいに売りさばく魂胆がありそうである。 日本の政治外交は昔もそうであったが、今もワンテンポ遅れている。かって植民地争奪戦の時代があった。日本も送ればせながら、中国に軍隊を送り、満州(中国の東北地方)に植民地を築き、さらに中国全土を支配せんとした。ただ残念ながらその頃には植民地争奪戦の時代は終わりに近づいていた。例えばアメリカは中国を植民地することを望んでいなかった。互いに貿易によって儲けようではないかと思っていたのである。このことに全く気付かずに当時最強の軍事力を誇ったドイツと手を組んでしまった。強いものに憧れるのは今も同じである。 いま、アメリカの一極覇権主義が続いている。日本はこれが10年以上の長期間も続くと信じて疑わない。ドイツ帝国がアメリカ帝国に変わっただけである。悲劇はここから始まる。アメリカ自身が既に将来の多極分散政治を想定している。アメリカ軍の世界的再編もその一つである。なぜ、世界は多極分散でなければならないか。それは、アメリカが他の国を豊にして、それらの国と貿易しないと儲からないからである。アメリカ人2億4千万人の国民を食わせるためには、他国から一方的に搾取するだけでは足りない。日本のように豚は太らせてから食べた方が美味しいということでしょうか。何でも逆らえない日本のようにすれば、そのような国を増やせば、21世紀もアメリカの世界でしょう。日本自身も分散型の道州制政治を断行しないと、アメリカから見て太った豚から、貧しい豚になってしまうでしょう。 このように世界情勢が全く見えない日本は、アメリカに尻尾を振り、近隣アジア諸国には挑発的外交を繰り返す。時代の趨勢を2歩も読み間違えていませんか。憲法9条論議は必然的に、明日の日本をどうするかの議論になるのである。 ...もっと詳しく |
「さがえ九条の会」発足にあたり多くの市民から、賛同メッセージが寄せられています。これは一部ですが紹介いたします。
◆私たちの年代は戦争で尊い犠牲のうえに生かされている自分です。戦争は、個人の幸せを根こそぎ奪う、個人社会を、国をも不幸に導いてしまいます。私が出来ることは、何であろう。たしかに、九条の会の賛同者になることでした。 (中央・秋葉クニ) ◆ご苦労様です。趣旨には心から賛同します。陰ながら応援しています。 (高松・A子) ◆アメリカの押しつけ憲法という人もいますが、60年もの長い間、このように平和でくらせたのは、この憲法のおかげと私は思います。 (道生・B子) ◆世界に誇れる九条は何としても守りたい。 (元町・阿部久子) ◆平和な、戦争のない世の中を孫たちのために残したいと考え賛同しました。 九条はぜひ守りたいです。(南町・安孫子陽子) ◆気づいた人から、 やれるところからの精神で反戦争のためにがんばります。 (島・A男) ◆戦争は絶対にいけません。 人間が人間を殺しあうなんてとんでもないこと。口げんかとは違います。人間ばかりか地球・大自然に多大な長期間悪影響を与えます。 (日田・太田昭雄) ◆9条に値する国になりたいですね。 (八鍬・工藤隆弘) ◆私の生まれた年にできた憲法です。「戦争の放棄」は変えたくありません。もし戦争になったら誰が護ってくれるのでしょうか。まだまだわからないことがたくさんあって、勉強しなければなりませんね。 (丸の内・E子) ◆現憲法が「大日本帝国憲法」にもどそうとも見える。 九条を変えれば、また徴兵制の途も打ち出してくるのではないかと危惧している。そうならないように九条を守るたたかいを拡めなければならないと思う。 (若葉町・加藤清一) ◆孫子の代まで守りぬかなければなりません (緑町・渋谷啓一郎) ◆心から応援しています。 がんばってください。 (中郷・T子)(六供町・N男) |
武力による国際貢献は、イラク問題で解決のむずかしいことがわかる。にもかかわらず、憲法九条の改悪がすすんでいるようです。
私は、自力で幼児の保育にあたっていますが、今0才の幼児が5名通園しています。 (1才〜2才15名、3才〜5才20名) 先ず、0才の児は私になれてもらう方法で保育をはじめます。すると他の保育士に抱かれても泣きやまない子を、私が声をかけ抱いてやるとピタリと泣き止むのです。このかわいい子らが国際紛争などにまき込まれない平和な生活が期待できる基本的なものが、憲法九条だと思います。ですから、九条を守る運動に大賛成なのです。 安食 正一(牧師) |
今年、“天命を知る”という50代となりました。今まで唯自分の楽しみだけで生きてきました。そろそろ周辺の方々にお役に立てることをと、先日『ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展』と映画『父と暮せば』の上映会に関わりました。
二つのことを通して私の心で繰り返されたのは《記憶》という言葉でした。 私には直接的な戦争体験はありませんが、原爆の写真をパネルに張りながら、死んだじぃちゃんのことを思い出していました。体が弱かったので出征できず後ろめたさに傷ついていることを感じた子供なりの私自身の《記憶》が蘇りました。 映画の中では父が、生き残ってやはり後ろめたい娘を諭し励ましました。「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝えるところじゃないんか」と。《記憶》を伝えるために生かされているのだと娘は再生するのです。 一人ひとりの《記憶》がしっかりつながって、それは“国の記憶”となりました。それが日本国憲法の前文であり第9条の非武装平和主義ではなかったのでしょうか。 木村久夫(さくらんぼ共生園園長) |
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軍隊は、仮想敵を作らなければ訓練もなにもできません。敵も仮想敵もいないけれど訓練に励めなんていうのはあまり迫力がありません。 それに軍隊は仮想的を大きくすればするほど予算も沢山もらえて、その方が自己肥大化には便利です。高橋是清のように、無いものは出せないなんていうと殺されてしまいます。
しかし仮想敵を作って軍備をすれば、仮想敵にされた国も怖いから軍備をして、両方とも負けるのは厭だから、両方とも軍備はどんどん大きくなります。
大体被害妄想というのは、加害妄想よりずっと怖いものです。被害妄想の国が二つ並んでいたら先ず戦争になります。やられるのが怖いから先制攻撃なんかします。
今戦争したら、人類は滅びるでしょう。アメリカのように被害妄想になるとあらぬ国を侵略して平気になります。ですからわたしは、憲法九条第二項をかえることに絶対反対で、頑固な護憲派なのです。
〜頑固親父N〜