さがえ九条の会
東海林正志氏の戦争体験その2
昭和16年三月末、黒河省孫呉義勇隊訓練所に移行しました。孫呉街には、関東軍特別大演習の折は三万の関東軍が集結しておりました。その孫呉街から北西に20キロぐらい行ったところに訓練所がありました。5ケ中隊1千二百名ほどの訓練生がおりました。
孫呉訓練所から二十数キロ北西に行くと満ソ国境があり、その後ろ約4キロのところに勝武屯義勇隊訓練所(一個中隊)があり更に後ろに国境警備の1個大隊約600人の関東軍が駐屯しておりました。
昭和16年6月頃、第4中隊の営門に警備の立哨をしておりました。営門から50メートルぐらい下がったところに、孫呉街から国境に向かう軍用道路がありした。
昼間は軍用道路を通る人も少なく、殺風景な風景を眺めているだけですから退屈で時間が長いなと軍用道路を見ていると、孫呉街のほうから黒っぽい衣服を着た集団が長い列を作ってこちらに迫って来ます。野次馬根性が出てきて、軍用道路に下りて行きました。その隊列は四列縦隊で約百メートルぐらい続いており、少なくとも約三百名はおるみたいでした。
彼らは孫呉街から二十キロの道を歩いて来たのですから、どの顔も疲れきっているようで隊伍は乱れがちでした。彼らの胸元を見ると、白い布切れが細長く縫い付けてあり、そこには北安省何々県何なに屯と姓名が書かれていました。私は、ほん の少し満語がわかるので、「何処に何しに行くのか」と聞こうとしたが、彼らが、みずから運命を知っているような寂しげで、どうにもならないのだと言う様に、口をもぐもぐしてしゃべっている表情でしたが、聞き取れませんでした。
当時満州では「労工」と言い日本流に良く言えば勤労奉仕ですが、満州では強制奉仕で、満州国の黒子で影の権力者であった関東軍はこの「労工」を各屯(日本の村と同じ)強制的に割り当てたのです。この「労工」の隊列を指揮し、看視している、憲兵か特務機関がおったと思いますが、彼らの姿が見えず、「労工」の服装で「老工」の隊列に潜りこんで、隊列の指揮と看視をしていたのではないかと思いました。
この「労工」の皆さんが、再びこの軍用道路を通って故郷へ帰る事はありませんでした。
鶴岡炭鉱に戦後強制残留させられた日本人の中に、元黒河省の勝武屯近くの陣地の戦闘に参加した方がおりました。その方にお聞きすると、強制連行された「労工」は、陣地構築が終わると、大盤ぶるまいのご馳走で酒を飲まされ、其の後虐殺されたと話しておりました。
満州の国境地帯の陣地構築に狩り出された「労工」の皆さんは、ほとんどの地域で、陣地の秘密を守るとの立場から、横暴で、非人間的な虐殺おこなわれました。
3のところでは孫呉訓練所での思い出に残る事について書きます。
2006.02.06:
aone
:[
メモ
/
▼私の戦争体験
]
▼この記事へのコメントはこちら
名前
件名
本文
URL
画像
編集/削除用パスワード
※半角英数字4文字で自由に入力下さい。
手動入力確認イメージ
※イメージ内の文字を小文字の半角英字で入力して下さい。
※ 投稿後、すぐに反映されます。
▼九条の会とは?
▼結成総会
▼呼びかけ人メッセージ
▼賛同メッセージ
▼九条の会ニュース
▼イベント案内
▼事務局からお知らせ
▼Q&A
▼私も一言!
▼リレーメッセージ
▼広がる「九条の会」ネットワーク
▼憲法関連コラムから拾う
▼私の戦争体験
▼9条の会関係リンク
◎山形県九条の会ネットワーク
◎九条の会オフイシアルサイト
◎憲法改悪反対共同センター
◎九条の会山形県民連絡会
カテゴリー
メモ
メール
Q&A
暦
リンク
地図
ウィキ
特集
プラン
ケータイサイト
インフォメーション
プロフィール
copyright/aone
孫呉訓練所から二十数キロ北西に行くと満ソ国境があり、その後ろ約4キロのところに勝武屯義勇隊訓練所(一個中隊)があり更に後ろに国境警備の1個大隊約600人の関東軍が駐屯しておりました。
昭和16年6月頃、第4中隊の営門に警備の立哨をしておりました。営門から50メートルぐらい下がったところに、孫呉街から国境に向かう軍用道路がありした。
昼間は軍用道路を通る人も少なく、殺風景な風景を眺めているだけですから退屈で時間が長いなと軍用道路を見ていると、孫呉街のほうから黒っぽい衣服を着た集団が長い列を作ってこちらに迫って来ます。野次馬根性が出てきて、軍用道路に下りて行きました。その隊列は四列縦隊で約百メートルぐらい続いており、少なくとも約三百名はおるみたいでした。
彼らは孫呉街から二十キロの道を歩いて来たのですから、どの顔も疲れきっているようで隊伍は乱れがちでした。彼らの胸元を見ると、白い布切れが細長く縫い付けてあり、そこには北安省何々県何なに屯と姓名が書かれていました。私は、ほん の少し満語がわかるので、「何処に何しに行くのか」と聞こうとしたが、彼らが、みずから運命を知っているような寂しげで、どうにもならないのだと言う様に、口をもぐもぐしてしゃべっている表情でしたが、聞き取れませんでした。
当時満州では「労工」と言い日本流に良く言えば勤労奉仕ですが、満州では強制奉仕で、満州国の黒子で影の権力者であった関東軍はこの「労工」を各屯(日本の村と同じ)強制的に割り当てたのです。この「労工」の隊列を指揮し、看視している、憲兵か特務機関がおったと思いますが、彼らの姿が見えず、「労工」の服装で「老工」の隊列に潜りこんで、隊列の指揮と看視をしていたのではないかと思いました。
この「労工」の皆さんが、再びこの軍用道路を通って故郷へ帰る事はありませんでした。
鶴岡炭鉱に戦後強制残留させられた日本人の中に、元黒河省の勝武屯近くの陣地の戦闘に参加した方がおりました。その方にお聞きすると、強制連行された「労工」は、陣地構築が終わると、大盤ぶるまいのご馳走で酒を飲まされ、其の後虐殺されたと話しておりました。
満州の国境地帯の陣地構築に狩り出された「労工」の皆さんは、ほとんどの地域で、陣地の秘密を守るとの立場から、横暴で、非人間的な虐殺おこなわれました。
3のところでは孫呉訓練所での思い出に残る事について書きます。