さがえ九条の会
呼びかけ人メッセージ 土田ヨウ子さん
私たち一家は昭和十六年八月に郡山の在から天童の小さな寺に越して来ました。
父は、明治三十三年生まれ。典型的な明治型正義派でした。その年の十二月に第2次大戦が始まり小さな寺での初めての生活は、とても大変でした。舞鶴山の草を生きる糧にしました。
新聞の切抜きが趣味だった父は、皇室関係、戦争関係の記事を毎日のように切り取っては、戦果の報に一喜一憂していました。戦争が終わったときの父は狂人のようでした。「国に、軍に、そして新聞にまでだまされた」と怒りに震えていました。それまで大切に切りためていた記事を残らず庭に持ち出し泣きながら燃してしまいました。
ラジオ番組「真相はこうだ」が始まると、「いまさら何を言うかー、」とバチッと切ってしまいます。その父も二十六年に亡くなり、新憲法についての意見を話し合う間もありませんでしたが、もしあの一途な父がいきていたら「また国はうそをつくのか」と激怒したかも知れません。一度決めたことを、いつの間にか、そして何となくすり替えしまうようなやり方は許せません。父の怒った顔を思い浮べながら、平和な国日本の基本は守らねばと強く思っています。
土田ヨウ子
(下河原・元教員)
2005.10.29:
aone
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父は、明治三十三年生まれ。典型的な明治型正義派でした。その年の十二月に第2次大戦が始まり小さな寺での初めての生活は、とても大変でした。舞鶴山の草を生きる糧にしました。
新聞の切抜きが趣味だった父は、皇室関係、戦争関係の記事を毎日のように切り取っては、戦果の報に一喜一憂していました。戦争が終わったときの父は狂人のようでした。「国に、軍に、そして新聞にまでだまされた」と怒りに震えていました。それまで大切に切りためていた記事を残らず庭に持ち出し泣きながら燃してしまいました。
ラジオ番組「真相はこうだ」が始まると、「いまさら何を言うかー、」とバチッと切ってしまいます。その父も二十六年に亡くなり、新憲法についての意見を話し合う間もありませんでしたが、もしあの一途な父がいきていたら「また国はうそをつくのか」と激怒したかも知れません。一度決めたことを、いつの間にか、そして何となくすり替えしまうようなやり方は許せません。父の怒った顔を思い浮べながら、平和な国日本の基本は守らねばと強く思っています。
土田ヨウ子
(下河原・元教員)